「差別的な意図はない」からOKなのか
差別の問題になると、決まって持ち出されるのが、この「差別的な意図はない」という弁明や反論である。ただ、こうした主観的意図を述べることに、果たして意味があるのだろうか。問題とされる表現の多くは、「差別してやろう」という悪意からではなく、格別の自覚なく発せられるもので、「差別的意図はない」という弁明は虚しく響くことが多い。
たとえば、昨年11月に前地方創生相の山本幸三・自民党衆院議員が述べた「なんであんな黒いのが好きなんだ」発言。同氏は、三原朝彦・自民党衆院議員の政経セミナーの来賓あいさつで、三原氏との交友関係を強調しつつ、同氏が長年続けるアフリカとの交流について触れ、こう言った。
「ついていけないのが(三原氏の)アフリカ好きでありまして、なんであんな黒いのが好きなんだっていうのがある」
これが報じられると、山本氏は次のように弁明した。
「人種差別の意図はまったくない」
「表現が誤解を招くということであれば、撤回したい」
格別の「意図」なく、無意識に差別的な発言をしてしまっただけでなく、指摘された後も、問題を自覚できていないようだった。この発言は、山本氏の救い難いまでの無知と認識の甘さを印象づけた。マツコ・デラックスさんは、これにあきれ、「もはやそういう人はこの時代の政治家には不向きなんですよ」と一喝した。同感である。
特定の表現を差別的・侮蔑的であるとみなすのは、その表現をした当事者の主観ではなく、その社会に共有される倫理観であり感性だ。旭日旗の問題でも、いくら主観的には差別的意図は込められていないと主張しても、そこに他者の尊厳を傷つける差別性や挑発を感じ取るのがアジアのサッカー界の常識的な感覚であるならば、そのような受け止め方をされない表現方法を選択するよう努めていかなければならない。内輪だけに通用する価値観だけでなく、広く外の世界にも目を向けて、そこでの倫理観や感性を身につけていくのが、教養というものではないか。差別性が問われる表現というのは、人権感覚が問われる以上に教養、たしなみの問題だと思う。
同じ社会であっても、そこに共有される倫理観や感性は、時代によって変化していく。それをつくづく感じさせたのが、昨年9月、フジテレビ系で放送されたバラエティー番組『とんねるずのみなさんのおかげでした 30周年記念SP』内で、同性愛者を揶揄したと批判された問題だ。
番組では、80~90年代に流行ったキャラクター「保毛尾田保毛男(ほもおだ・ほもお)」を復活させ、とんねるずの石橋貴明さんが演じた。別のキャラに扮した木梨憲武さんとの間で、「あんた、ホモなんでしょ」「あくまでも噂なの」などといったやりとりを交わした。
ツイッターなどネット上には、これに不快感を感じた人たちの書き込みが相次いだ。それは、同性愛者自身に限らない。フジテレビにも「同性愛者を笑いものにしている」など、多くの批判が寄せられ、同社は放送翌日に謝罪した。
30年前には「おもしろい」と笑っていたものに、人々は嫌悪感を覚えるようになったのだ。それはつまり、LGBTを笑いの種にするのは差別であり人権侵害であるという倫理観や、そうしたものを不快に感じる感性が、多くの人々に共有されようになってきたことを示している。フジテレビの対応が早かったのは、同局の中にも、「これはまずい」と感じた人が多かったのだろう。
このような展開になったのは、性的少数者が直面している差別や困難についての知識が広まってきたためだ。昨今、カミングアウトしたLGBT当事者がさまざまな発言をし、イベントなどの啓発活動が行われ、「アライ(Ally)」と呼ばれる理解・支援者も増えてきた。身近にLGBT当事者の友人がいればなおのこと、その心情を想像し、こういう番組を不快に感じるようになる。知識や体験は、人の倫理観や感性を変えていくのだ。
もちろん、そうした感覚がすべての人に共有されているわけではない。番組でとんねるずと共演したビートたけしさんは、東スポの連載で「LGBTの団体も喜べばいいじゃん。お笑いで普通にやってるんだから、十分に認めてるってこと」「もうちょっと、笑うような寛容さがほしい」と注文をつけた。