江戸初期、後陽成天皇の第7皇子が「高松宮」を創設、その後「有栖川宮」として明治まで存続した宮家
NHK大河ドラマ『青天を衝け』で、孝明天皇の妹・和宮親子(かずのみや・ちかこ/演:深川麻衣)内親王が、有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王との婚約を解消し、14代将軍・徳川家茂(いえもち/演:磯村勇斗)のもとに輿入れした。
では、有栖川宮ってなんだ?
有栖川宮は旧皇族のひとつで、寛永2(1625)年に後陽成天皇の第7皇子・好仁(よしひと)親王が創設した。当初は高松宮(たかまつのみや)と名乗っていたが、3代・幸仁(ゆきひと)親王が有栖川宮と改称したのだという。4代・正仁(ただひと)親王は子がなくして死去したため、霊元(れいげん)天皇の第17皇子・職仁(よりひと)親王が継ぎ、以後その子孫が継承していった。
「有栖川宮熾仁親王に嫁ぐよりも、家茂サンでよかったかもぉ~」と和宮は思ったかも?
職仁親王の孫・登美宮吉子(とみのみや・よしこ/演:原日出子)は、徳川斉昭(演:竹中直人)に嫁ぎ、嫡男の徳川慶篤(よしあつ/演:中島歩)、七男の徳川慶喜(演:草なぎ剛)を生んだ。
和宮が婚約した有栖川宮熾仁親王は、吉子の兄・有栖川宮韶仁(つなひと)親王の孫にあたる。
和宮は婚約を解消され、泣く泣く徳川家に嫁いできた悲劇のヒロインとされてきたが、近年では「いや、意外にそうでもなかったんじゃないの」説が主流になりつつある。
婚約といっても、和宮が5歳の時に周囲が勝手に決めたものであり、和宮にそこまでの思い入れがあったかは定かではない。一方、家茂は、和宮との夫婦仲を円満にすることが、時の政治情勢を好転させるものと理解していたため、すこぶるいい夫だったらしい。
ずっと御所に住んでいた姫にとっては、人外魔境の地・東(あずま)くんだりに嫁に行かされて、その上、お姑さん(篤姫/演:上白石萌音)には辛く当たられて、でもでも、ダンナさんは優しくて――ってなったら、そりゃあメロメロだよね。実際、夫婦仲はよかったらしい。
ダンナさんの家茂が上洛するというので、結婚して2年目(文久3年/1863)の2月、和宮は無事を祈って御百度参りを始める。なんだかんだで延期になったけど、12月に上洛することになり、また御百度。半年後(元治元年/1864)の5月に家茂が無事帰還して、その御礼にまた御百度。ところが、1年後の慶応元(1865)年5月に家茂は上洛。というわけで、和宮はまたも御百度。そして、翌慶応2年に家茂が大坂で病気になったと聞けば、また御百度――7月20日もいつも通り御百度を済ませていたのに、家茂は帰らぬ人となった。
むしろ近年では、家茂に嫁いだことより、家茂が若くして死去してしまったことのほうが、和宮にとって悲劇だったとする傾向が強い。
家茂は上洛にあたって、まさかの時には田安徳川家の亀之助(のちの徳川宗家16代・徳川家達/いえさと)を継嗣に迎えるように申し伝えていた。その「まさか」が起きてしまったのである。幕閣は「次の将軍は誰にしますか? 亀之助様ですか?」と和宮の意向を打診した。ところが亀之助はまだ2歳。篤姫は慶喜を将軍にするために薩摩から派遣されてきたのに、この頃はスッカリ慶喜嫌いに転身しており、亀之助の相続を主張したが、和宮はこの難局を乗り切るには2歳児じゃダメだと冷静に返答したという。
徳川に嫁いだ和宮は戊辰戦争のおり、徳川慶喜との面会を拒否…有栖川宮熾仁親王は「徳川許すまじ!」
一方、有栖川宮熾仁親王は反幕の長州藩びいきでは朝廷でもトップクラス。長州藩に肩入れしすぎて、孝明天皇に叱責され、謹慎処分に遭うほどだった。許婚(いいなずけ)を略奪されて「徳川許すまじ」ってところだろうか。
明治維新で、明治新政府が樹立されると、長州シンパの熾仁親王は最高位の総裁に就任。そして、官軍が徳川慶喜を征伐する戊辰戦争では、自ら志願して東征大総督に任じられた。
いや、でも、和宮の婚約が解消になって、代わりにお嫁に来たのは水戸徳川家の姫、慶喜の異母妹・貞子なんだけど。その上、慶喜の兄・慶篤の妻は熾仁親王の妹。さらにいうと、もうひとりの妹は井伊直弼(演:岸谷五郎)の息子と結婚している。そんなに徳川を目の敵にしなくても、と思ってしまう。ただ、熾仁親王は明治天皇の信頼が厚く、その後も元老院議長、陸軍大将などを歴任したから、長州シンパで反徳川という姿勢は間違いではなかったかもしれない。
さて、和宮の母方の従兄弟・橋本実梁(さねやな)も戊辰戦争で東海道鎮撫総督に任じられ、江戸に進軍。和宮は実梁に手紙を送って徳川家存続を嘆願した(和宮の嘆願は「慶喜助命」ではなく、「徳川家存続」である。慶喜が大坂から逃げ帰ってくると、篤姫は対面したが、和宮は会おうともしなかったという)。和宮はもうすっかり徳川の人間になってしまったのである。熾仁親王にとってみれば、「徳川許すまじ」というところだろう。
有栖川宮家断絶を憂いた大正天皇は、朝敵・慶喜を介し、有栖川宮家を「高松宮家」として再興へ
熾仁親王には子どもがいなかったので、末弟の有栖川宮威仁(たけひと)親王を継嗣とした。ところが、威仁親王の子・栽仁王(たねひとおう)が父に先立って死去してしまい、大正2(1913)年に威仁親王が死去すると、有栖川宮家は断絶してしまう。
明治新政府は、明治天皇に生存した兄弟がおらず、将来的に皇統が断絶することを危惧していた。そこで、以前に分かれていた四親王家――有栖川宮、閑院宮(かんいんのみや)、伏見宮(ふしみのみや)、桂宮(かつらのみや)――を天皇家に準ずる皇族としてワンランクアップしたのだが、その時に皇族に養子制度を適用しないこととした。江戸時代なら、天皇家や他の宮家からの養子を迎えればよかったのだが、それができなくなってしまったのである。
大正天皇は名門・有栖川宮家が絶えてしまったことを惜しみ、3男の宣仁(のぶひと)親王に高松宮家を再興させた。冒頭で述べたように、高松宮というのは有栖川宮家の旧称である。そして、裁仁王の姪・喜久子を宣仁親王妃に迎えることで、血縁によっても有栖川宮家を伝承する正統性を与えたのである。
ここで登場するのが、有栖川宮家の血を引く徳川慶喜である。栽仁王の妹・実枝子が、慶喜の嗣子・徳川慶久と結婚。生まれた娘が喜久子なのだ。
ちなみに、渋沢栄一(演:吉沢亮)・千代(演:橋本愛)夫妻の跡取り息子・渋沢篤二(とくじ)の妻・敦子は、橋本実梁の6女である。いろんなところで人生が交錯する。それが歴史の醍醐味なのかもしれない。
(文=菊地浩之)