新型コロナウイルスの感染拡大による3回目の緊急事態宣言下にある日本では、人流の動きを制限しても変異株の影響で感染者数や重症者数を減らすことが困難になってきている。このため政府は「頼みの綱」であるワクチンの本格配布を5月10日から実施し、希望する高齢者への接種を7月末までに終えることに全力を挙げて取り組んでいる。
世界に目を転ずると、ワクチン接種が進んだ一部の国で制限緩和の動きが出てきている。世界最多の犠牲者数(58万1000人)が出た米国では、バイデン大統領が掲げる目標(7月4日の独立記念日までに国内成人の7割に最低1回のワクチン接種を行う)達成に目途が立ち、国内での感染が再び急拡大する可能性が低くなったとされている。
事態が改善したことを踏まえ、バイデン大統領は5日「新型コロナワクチンが購買力に乏しい途上国に広く行きわたるよう、米製薬会社が保有するワクチン特許の一部放棄を求める世界貿易機関(WTO)加盟国の提案を支持する」と表明した。「米国がワクチンを独占している」とする国内外の批判をかわす狙いがあるとみられている。
米政権が特許権放棄に言及すると、早速米ファイザーなど大手製薬企業などは「技術革新を妨げる可能性がある」と激しく反発する動きを示している。米ファイザーは5月初め、新型コロナウイルスワクチンの今年の売上高は従来予想の70%増の260億ドルに達するとの見通しを示していた。ワクチンは同社の通年の売上高の3分の1以上を占める「ドル箱商品」となっている。
世界のワクチンビジネスの規模も巨大なものになりつつある。米医療情報会社アイキュービアは4月29日、「新型コロナウイルスワクチンの今年の支出額は世界全体で540億ドルになる」と予測した。さらに「今後メーカー間の競争が激化し、ワクチンの生産量が増加することで価格が下がることから、2025年までの世界の支出額は1570億ドルに達する」と見込んでいる。25年までの世界のすべての処方薬への支出額が7兆ドルとされていることから、ワクチンの支出額は全体の2%を占める計算となる。
巨額のビジネスに支障が生じると懸念するファイザーなどに対して、米国政府にも言い分がある。トランプ前政権時代にワクチンの開発速度を上げるために、ファイザーに19億ドル、モデルナに25億ドルの資金を前払いするとともに、緊急承認の手続きを迅速に行ったからである。これによりファイザーとモデルナはもっとも有効性の高いワクチン(メッセンジャーRNAタイプ)をいち早く市場に供給することができた。
英アストラゼネカ製ワクチン
米政権の呼びかけが契機となって大議論が巻き起こっているが、「大山鳴動してねずみ一匹」で終わってしまうのではないかと筆者は考えている。特許権が放棄されたとしても、メッセンジャーRNAタイプのワクチンは他の企業が短期間に生産技術を習得するのは難しいからである。ファイザーのCEOは「同社のワクチンの発展途上国向けの価格は割安に設定されているが、長期保管のためにはマイナス70度に保つ冷蔵設備が必要であり、発展途上国の需要は低い」と述べている。
これに対して、特許権放棄でもっとも影響を受けるのは英アストラゼネカ製ワクチンではないだろうか。ワクチンの原液を供給するだけで、世界各地に生産拠点が構築できるからである。特許権放棄を要求しているインドでは、アストラゼネカ製ワクチンが大量に生産されている。メッセンジャーRNAタイプと異なり、常温での長期保管が可能であることも発展途上国にとってメリットが大きい。メッセンジャーRNAタイプよりも有効性は若干劣るものの、世界のワクチン不足を補うためにはアストラゼネカ製ワクチンの特許権放棄が有効なのだが、英国政府は消極的な姿勢を崩していない(ちなみに米国政府はアストラゼネカに対しても12億ドルの資金支援を行っている)。
「ワクチン・ブロック」化
米政権の呼びかけとは裏腹に、このままの形でワクチン供給が進むと、世界経済に深刻な亀裂が生じるとの懸念が頭をもたげている。世界で現在流通しているワクチンは、米国製が4種(ファイザー、モデルナ、ヤンセン、ノババックス)、中国製が4種(シノファーム、シノバック、カンシノ、武漢研究所)、ロシア製が3種(スプートニクV、エピワクコロナ、コビワク)、英国製が1種(アストラゼネカ)、インド製が1種(コバクシン)だが、ワクチンの信頼性をめぐり、製造国同士の水面下での争いが熾烈になっている。
EUは4月28日、「中国とロシアがソーシャルメディアを通じて、欧米製のワクチンへの不信感をあおるキャンペーンを展開している」とする報告書を公開したが、ロシアと中国はこの指摘について猛反発している。
EUのフォン・デア・ライエン委員長は4月25日、ニューヨーク・タイムズのインタビューで「ワクチンの接種を受けたのであれば、欧州は再び米国旅行客を受け入れることができるだろう」と述べた。米国国民を特定したのは「欧州医薬品庁(EMA)が承認したワクチンを接種している」からである。EMAは中国とロシアのワクチンは承認しておらず、これらのワクチンに頼る多くの発展途上国の人との往来に今後支障が生じるだろう。
中国政府も今年3月、自国製のワクチン接種者に限り入国手続きを簡素化する(新型コロナウイルスの検査免除)方針を発表している。
このように、ワクチン接種による選択的旅行許可措置の導入が進めば、今後世界経済が「ワクチン・ブロック」化し、コロナ禍からの回復に深刻な遅れをもたらすことになってしまうのではないだろうか。
(文=藤和彦/経済産業研究所コンサルティングフェロー)
(参考文献)復活!日英同盟 インド太平洋時代の幕開け(秋元千明著)