五代目体制を始動させた山健組が、発足後初めてとなる定例会を6月11日に開催させた。捜査関係者によれば、定例会の席上、各直参組長らに五代目山健組の新人事表が配られたほか、地域別で統治されているブロック制の新たな区分けも行われたとみられている。
そうしたなかで、五代目山健組からひとりの大物組長が絶縁され、その処分を告げる書状が神戸山口組関係先へと送付されている。
すでに実話誌などでも報じられているが、今回、五代目山健組から絶縁され六代目山口組系組織へと移籍したのは、四代目山健組で舎弟頭を務めた重鎮、生島組・生島仁吉組長である。
「山健組の定例会では、最後に代貸(舎弟頭)より一言というのがあって、いつも生島組長が歯に衣着せぬ発言をしていた。それほどの重鎮だった。特に任侠山口組が結成された後の定例会では、『中田浩司若頭(現・五代目山健組組長)を中心にまとまっていこう』という旨を述べて士気を上げたと言われていた。そんな人物の移籍なだけに、山健組内外への影響は少なくない。また今回、生島組長以外にもうひとりの直参組長が絶縁されているが、すでに業界関係者の間でその処分は知れ渡っていた。それは本状(本物の絶縁状)よりも先に、何者かが作成した絶縁状がSNSで拡散されていたからだ」(神戸山口組関係者)
SNSでは、偽の絶縁状や破門状以外にも、五代目山健組の非公式の人事表まで作成されて出回っている。しかも、内容はほぼ事実に沿ったものとみられている。裏を返せば、それだけ山健組という組織が、神戸山口組の二次団体でありながらも、その中核組織として業界関係者の間で注目を浴びているということではないだろうか。
この親分は、どの世界に行ったとしても成功していた
五代目山健組への代替わりに際し、同組から正式に発行された回状では、引退2名、絶縁2名、破門1名、除籍2名について報告されたと捜査関係者はみているようだ。
その引退した親分のうちのひとりは、「本物の男。悪い噂を一度も聞いたことがない」(地元関係者)といわれる四代目西川会・松岡立神会長で、今回の代替わりをひとつの節目としてヤクザ社会から退いている。
筆者が初めて松岡会長とお会いしたのは今から十数年前で、8年の刑期を務め終えた翌日であった。当時、松岡会長が率いていた武神会の幹部が、著者の放免(出所祝い)に駆けつけてくれたために、返礼としてその翌日に兵庫県姫路市にある武神会の事務所にお邪魔した時のことだ。
出迎えてくれた幹部に通された室内は圧倒されるほど豪華だった。筆者は、そこで幹部に前日の御礼を述べて談笑してたのだが、そこに入ってきたのが松岡会長だった。松岡会長はまったく着飾っていないカジュアルな格好で、幹部がサッと用意した座布団に腰を下ろすと、筆者に対して労いの言葉をかけたのちに、こう口にした。
「ワシ、神さんが好きでんねん」
事務所に祀られている豪華絢爛な神仏がそれを裏付けしていたのであった。初対面の筆者にまったく気負いなく自然に口から出たその言葉。なのに、そこに座っているだけで松岡会長からはただならぬオーラが放たれていた。立ち居振る舞い、発する言葉、すべてに著者は魅了されたのだった。
その後、松岡会長は瞬く間に出世街道を駆け上がっていき、西川会の四代目を継承した。山健組の直参へと昇格を果たした際には、業界内で押しも押されもせぬ存在となっていた。
ひとつの道で成功を収めた人物に「あの人なら、どの世界に行ったとしても成功していただろう」という表現が用いられることがある。まさに松岡会長とはそういった人物ではないだろうか。今回の松岡会長の引退に伴い、四代目西川会は、松岡会長が創設した武神会に名称を戻し二代目武神会として、五代目山健組の直参へと昇格を果たし、その伝統を脈々と受け継いでいくことになったのだ。
(文=沖田臥竜/作家)
●沖田臥竜(おきた・がりょう)
2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、『山口組分裂「六神抗」』365日の全内幕』(宝島社)などに寄稿。以降、テレビ、雑誌などで、山口組関連や反社会的勢力が関係したニュースなどのコメンテーターとして解説することも多い。著書に『生野が生んだスーパースター 文政』『2年目の再分裂 「任侠団体山口組」の野望』(共にサイゾー)など。最新小説『忘れな草』が発売中。