こうした「テレビ政治家」の言説によって政権を奪取した民主党政権は、テレビで語っていたさまざまな国民的期待を裏切った形となり、結局国民にとって「口で約束したことに対する実行力のない政党」となってしまった。政治において「実行力がない」ということは、「政治ができない」というのと同じこと。民主党には酷だが、12年の衆議院議員選挙以降、今回の都議会議員選挙でも、国民の民主党に対する評価はまったく変わらなかったわけだ。
残念ながら民主党議員は、いまだに「テレビ政治家」として根本政策や国家ヴィジョンのない安倍政権批判を繰り返していることもここにとどめておきたい。もはや哀れというほかない。
一方、同じ「テレビ政治家」戦略で、同様に敗北したのが日本維新の会であろう。そもそも、日本維新の会の敗因は、選挙直前に大問題になった「橋下大阪市長慰安婦発言」である。これらは、国際問題をはらんだ大きな騒動になってしまった。しかし、ここで注目しなければならないのは、橋下大阪市長がなぜそのような発言をしなければならなくなったのか。実は、ここにも「テレビ政治家」という病理が関係しているのである。
橋下大阪市長は、代表的な「テレビ政治家」である。ひとつの政策テーマに対して、テレビカメラの前で過激な表現を行い、他者を批判しながら自己の主張の正当化を行う。まさにテレビコメンテーターの第三者的客観性と、バラエティ番組における過激な脚色付けが行われ、その中でドラマ的な「現実に近いフィクション」空間を作り出すことができる。このことは石原慎太郎維新の会共同代表が「突破力」という表現で、おおいに期待したところである。
しかし、この「テレビ政治家」に対して、国民はその発言の通りの行動ができるかどうかを常に監視している。政治家として発言した以上、現在よりも良い結果を生む「実行力」を求める、その一方で、「テレビのショーマンシップ」として、より一層過激な発言で「楽しませてくれること」を望むことになる。そして今回、国民の期待感は、橋下大阪市長や維新の会の実力をはるかに超えてしまうレベルを要求するようになってしまったのである。
例えば大阪都構想など、主張していながら何年も実行できていない政策課題が多かった。それでも、12年の衆院選までは、「国政に出ていないから」と弁明することで、国民の期待感のほうが上回っていた。だがその選挙で国政の場で第三党に躍進したにもかかわらず「維新八策」とした政治課題が、まったく前に進まず停滞してしまった。いつしか「口だけ政党」「パフォーマンス政党」と揶揄されるようになり、橋下大阪市長に対する風当たりは強くなっていた。そこにきて、アベノミクス効果で、橋下大阪市長は“テレビ政治”の主役から引きずり降ろされ、彼に対する注目は徐々に薄れていき、国民的な支持率も合わせて低下、ジリ貧状態になっていったのである。
そのような背景から出てきた発言が「慰安婦発言」である。橋下大阪市長にしてみれば、これまで、大阪都構想や官僚改革を(まさに)ぶちあげてきたのと同様の手法で、同じようなことを言っているつもりであったかもしれない。しかし、唐辛子を食べ続けて麻痺をした舌と同じように、彼の発言に対する国民的な反応が麻痺しており、今までと同じように扱われなかった。まさに、橋下大阪市長に対するフィルターが外れた報道が、マスコミ報道によってなされてしまったのだ。
その結果はすでに明らかな通りであり、また、彼の世論形成力を「突破力」と表現して期待していた維新の会にとっては、次の参議院選挙までに党の勢力を立て直すことがかなり難しいということが予想される。
このように、今回の都議選は、「テレビ政治家の敗北」という見方ができる。国民は、各政党の政治やそのイデオロギーを強く意識して投票したわけではなく、単純に「テレビ政治家」の発言や彼らの発言を報道するマスコミに対しておぼろげな危機感を感じ、投票行動に出なかったということだ。
一方で、これらの「テレビ政治家」は後を絶たない。政治評論家も同じだが、奇をてらうことによって世間の注目を浴び、ブームの波が終わった時点で消えてゆくのだ。それはまるで「一発屋芸人」と同じといえるのではないだろうか?
(文=宇田川敬介)