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三井物産を生んだ切れ者…『青天を衝け』で“政商”三井家を生んだ、三野村利左衛門の暗躍

文=菊地浩之
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三井物産を生んだ切れ者…『青天を衝け』で“政商”三井家を生んだ、三野村利左衛門の暗躍の画像1
NHK大河ドラマ『青天を衝け』で三井の大番頭・三野村利左衛門を演じるのはイッセー尾形。あの渋沢栄一から「無学の偉人」と評された利左衛門の生涯とは? (画像は撮影日不明/近現代PL/アフロ)

のちに三井家“大番頭”となる三野村利左衛門、小栗上野介忠順の中間となる

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』第25回(8月22日放送)では、三井の大番頭・三野村利左衛門(みのむら・りざえもん/演:イッセー尾形)が登場した。非常に喰えない人物で、この後もしばしば登場する。

 三野村利左衛門の出自は定かではない。出羽庄内藩(山形県鶴岡市)の武士・木村家に生まれたが、実父は放浪。幼少で孤児となり、江戸で丁稚奉公に出された。その真面目な奉公ぶりが認められ、旗本・小栗上野介忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ/演:武田真治)の家に中間(ちゅうげん/雑務担当の奉公人)として奉公する。その後、砂糖商・紀ノ国屋(江戸中期の富商・紀伊国屋文左衛門とは赤の他人)に見込まれて婿養子となり、美野川利八(みのかわ・りはち)を襲名した。

 その頃、江戸幕府は長州征伐などで出費がかさみ、御用金を富商にたびたび仰せつけていた。そして慶応2(1866)年2月、三井家は、150万両(現在の価値に換算するとだいたい2000億円)という法外な御用金の上納を言い渡された。

 さすがの三井家も、そんな大金は手許になかった。むしろ、呉服店の不振、火事による店舗焼失などで経営は危機的な状況にあったという。しかし、無下には断れない理由があった。安政6(1859)年の横浜開港にともない、三井家は貿易関係の公金出納を命じられたのだが、その金を10万両ほど「浮き貸し」(公金を他者に貸し付けて利子を得ること)していたのだ。頭脳明晰の勘定奉行・小栗上野介はそれに気付き、内々に調査した上で、懲罰的に御用金を課したという。

 三井家は、両替店に出入りしている美野川利八が、かつて小栗様に奉公していたことを聞きつけ、番頭に大抜擢。三野村利左衛門と名乗らせた。「三野村」という名字は、「三井」と養家「美野川」、実家「木村」を合成して作ったものである。老舗の三井にとって、番頭の中途採用は例外中の例外だったのだが、利左衛門は期待を上回る成果をたたき出す。小栗と粘り強く交渉して、御用金を50万両に減額させることに成功したのだ。しかも、そのうち18万両(おおよそ234億円)を3カ月で分納して、残額は免除になったという。

日和見を決め込む富商をよそに三井家は新政府軍につき、“政商”化、特権を付与される

 その翌年の慶応3(1867)年10月、徳川慶喜(演:草彅剛)が大政を奉還。12月には明治新政府が、発足時の資金、および戦費調達で富商に御用金を課す。ここで富商たちは、幕府方につくか、薩長官軍の新政府方につくかの決断を迫られる。三井家はかねてから情報収集に努め、新政府側につくことを決意、御用金徴収に応じた。三井家のほかに応じたのは小野・島田家だけで、その他の富商は日和見を決め込んだという。

 それが運命の分かれ道だった。その翌月、慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が総崩れとなり、三井・小野・島田家は新政府側の商人として、さまざまな特権を付与されたのである。

 その一方、利左衛門は小栗上野介への旧恩を忘れず、千両箱を送って米国への亡命を勧めたが、慶応4(1868/明治元)年閏4月、小栗上野介は官軍によって斬首されてしまう。これに先立ち、上野介は母や妻を会津に逃亡させ、妻は会津で娘・国子を出産。戊辰戦争後に東京に戻り、利左衛門の保護下で育てられた。その後、国子は大隈重信のもとに引き取られ、自由民権論者の矢野龍渓(りゅうけい)の弟・貞雄を婿養子に迎えた。

 ここで、なぜ大隈重信が出てくるのかというと、大隈の妻・綾子(演:朝倉あき)が小栗上野介の従姉妹だからだ。明治初年の新政府財政は、以下の4人で動かされていた。

・大蔵卿 (大臣)  大隈重信(演:大倉孝二)
・大蔵大輔(次官)  井上 馨(演:福士誠治)
・大蔵大丞(次官補) 渋沢栄一(演:吉沢 亮)
・造幣権頭(局長)  益田 孝(演:安井順平)

 利左衛門は、そのトップの大隈重信と小栗家を介して人脈があったので、大蔵省に取り入った。明治4(1871)年には「新貨幣為替御用」を三井が独占的に拝命することに成功。さらに三井家のみ銀行「三井組バンク」設立が許可された。

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「日本資本主義の父」とも称された渋沢栄一が、その生涯で設立や経営にかかわった会社は500以上に上るとも。日本最古の銀行・第一国立銀行は、1873年(明治6年)に渋沢栄一により創設された。(画像はWikipediaより)

渋沢栄一によって日本初の近代的銀行・第一国立銀行が設立…三井家単独の銀行設立は認められず

 ところが、翌明治5(1872)年1月、大蔵省は態度を一変、三井単独の銀行設立に待ったをかける。

 井上・大隈・渋沢は、井上の私邸に三井一族・利左衛門らを呼び、銀行設立の条件として、不振の呉服店を三井から分離し、銀行設立に専心するように勧告した(「銀行設立は諦めてくれよ」と無理難題を押し付けたという説もある)。呉服店は三井の祖業であり、三井一族は拒否したが、利左衛門は粘り強く一族を説得。呉服店を分離した。

 ただし、三井家は表面上は分離するものの、ウラでは繋がるように工夫していた。すなわち、三井家は一族から若者を分家させて三越家をつくり、かれらに越後屋呉服店(現・三越伊勢丹)を譲渡。三井家の財産から切り離したのだ(「三越」とは「三井」と屋号の「越後屋」を掛け合わせたものである)。

 当初、大蔵省首脳は英国型の中央発券銀行制度を想定し、三井にその役割を担わせようと考えていたらしい。ところが、伊藤博文(演:山﨑育三郎)が米国型のナショナル・バンク方式にすべきと猛反対。結局、新政府は伊藤案に傾き、渋沢栄一が国立銀行条例を作成。明治5年11月に交付された(国立銀行とは国営の銀行ではなく、ナショナル・バンクを和訳したものだ。ちなみに「銀行」という言葉は、当時中国で使われていたいくつかの用語のなかから、渋沢栄一が決めたのだという)。三井家単独の銀行設立が認められなかった背景には、そんな政府内部の方針転換があったらしい。

 結局、明治6(1873)年6月に三井・小野家の共同出資で第一国立銀行(のち第一銀行、第一勧業銀行を経て、現・みずほ銀行)が設立された。頭取は三井家と小野家当主の2人、副頭取も三野村利左衛門と小野組の番頭・小野善右衛門(演:小倉久寛)の2人が選任され、月番で交替した。そして、それらの上に総監役として渋沢栄一が就任した。

 なぜ、大蔵官僚の栄一が一民間銀行の役職に就くのか。実は、栄一はその前月に大蔵省を退官していたのだ。第一国立銀行に天下りするためではなく、新政府内部の軋轢で、井上馨が退官。栄一と益田孝も行動を共にしたのである。

明治新政府の「抵当増額令」によって、小野・島田家は破綻、三井家のみが生き残る

 さて、明治維新以降、政府の公金は三井・小野・島田家が取り扱っていたが、3家はそのカネをそれぞれ「浮き貸し」していた。明治7(1874)年10月、政府は「抵当増額令」を発布。それまでは預かっている公金の3分の1に相当する抵当を差し出すことになっていたのだが、それを全額相当に引き上げたのだ。しかも、その提供期限を2カ月後の12月に設定した。

 小野家は「浮き貸し」として鉱山経営等の投資に充てていたため、現金化することが難しく、折悪しく米相場で大きな穴を空けていたことから破綻してしまう。同様に島田家も破綻した。

 三井家のみ破綻を免れた。抵当増額令の噂が出た時、みんなは「そんなことはできっこない」とタカを括っていたのだが、井上馨が三野村利左衛門に「大隈は本気らしいぜ」と耳打ちしたらしい。利左衛門は金策に奔走。オリエンタル・バンク(英国東洋銀行)から100万ドルにおよぶ融資を受けて、この危機を乗り切ったのだ。

三井家、第一国立銀行の実験を握った渋沢栄一を嫌い、日本初の私立銀行・三井銀行を設立

 第一国立銀行の二大勢力のうち、小野組が破綻したため、三井家は同行を完全支配できるとほくそ笑んだのだが、渋沢栄一が頭取に就任し、経営の実権を握ってしまう。

 そこで、三井家は新たに銀行創設の請願を東京府に提出。明治9(1876)年7月、私盟会社三井銀行(のち、帝国銀行→三井銀行→太陽神戸三井銀行→さくら銀行を経て、現・三井住友銀行)が設立された。日本初の私立銀行である。

 江戸時代の三井家の家業は呉服店と両替店だった。呉服店を切り離してしまったので、三井家の家業は銀行しか残っていない。仮に銀行が破産した場合には一族が路頭に迷ってしまう。銀行のほかに事業を興しておく必要があった。そこで、利左衛門は三井物産の設立を思いつく。

井上馨の政界復帰をきっかけに、三井銀行の“ウラ組織”、三井物産を設立

 渋沢栄一と共に大蔵省を退官した井上と益田は、大阪の商人・岡田平蔵と鉱山経営・貿易業を営む岡田組を設立するが、岡田が急死してしまったので、「先収(せんしゅう)会社」と名を変えた。ところが、明治8(1875)年12月に井上が新政府首脳と和解し、元老院議官として官界に復帰。先収会社は閉鎖されることになった。

 ここで、三野村利左衛門が先収会社を三井で継承し、経営を益田に委ねたいと提案。当初、消極的だった益田も利左衛門の説得に折れ、翌明治9(1876)年5月に井上邸で、井上馨・三野村利左衛門・益田孝の3者会談が開かれ、新会社の発足が決定。7月に先収会社をもとに三井物産会社を設立した。

 ここでも、三井家はまた一族から2名を分家させ、三井物産をかれらが共同で興した会社として、形式上、三井家と無関係であるかのごとく装った。万一、三井銀行と三井物産のいずれかが破綻しても、その負債がもう一方の企業に及ばないようにするための知恵であった。

 このように、三井家の最大の関心は、先祖から受け継いだ資産をいかにして保全し、継承していくかにあった。丁稚時代から三井に奉公していた者たちとは違い、三野村利左衛門はそうした三井家の在り方に疑問を持っていたらしい。井上馨の後押しもあって、三井家の家政改革を進めていたのだが、明治10(1877)年2月にガンによって死去した。享年57と伝えられる。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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