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『青天を衝け』堤真一じゃないほうの平岡準蔵って誰?…家康に仕えた平岡一族の数奇な運命

文=菊地浩之
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『青天を衝け』堤真一じゃないほうの平岡準蔵って誰?…家康に仕えた平岡一族の数奇な運命の画像1
静岡県静岡市にある駿府城。徳川家康の居城としても知られている。NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、慶喜が謹慎している駿府に向かった渋沢栄一は思いがけず駿府藩の勘定組頭を命じられ……。(画像はWikipediaより)

明治維新後、渋沢栄一は駿府藩で大久保一翁に面会…その隣りにいた駿府藩の重臣・平岡準蔵とは?

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』第26回(9月12日放送)で、渋沢栄一(演:吉沢亮)は駿府藩(のちの静岡藩)徳川家に向かう。

 意外に知られていないが、明治維新後、徳川将軍家(徳川宗家)は一大名として駿河静岡に転封されたのだ。栄一は一橋徳川家の家臣だったが、徳川慶喜(演:草彅剛)が将軍家を継ぐにともなって、慶喜に従って将軍家家臣=幕臣となった。明治維新で慶喜が謹慎を余儀なくされ、家督を田安徳川亀之助(のちの家達/いえさと)に譲ると、栄一の主は慶喜ではなく、徳川宗家=駿府藩ということになる。ややこしいが、それが江戸時代(もう明治時代なのだが)の論理なのだ。

 話が横にそれたが、栄一は駿府藩で重臣の大久保一翁(いちおう/演:木場勝巳)と平岡準蔵(演:大竹直)に面会する。

 ん? また、平岡か?

 残念ながら、一橋家家臣・平岡円四郎(演:堤真一)と準蔵は親戚ではない。たまたま苗字が同じだけで、赤の他人だったらしい。

もともとは甲斐武田家に仕えた平岡家…初代・平岡道成は家康に仕えるも、その後子孫は改易と復帰を繰り返す

 そもそも平岡準蔵の家系はどのようなものだったのか?

 平岡家の先祖は甲斐武田家に仕え、初代・平岡道成は武田家滅亡後に家康に仕え、甲斐国の代官となった。

 甲斐出身の代官で有名な人物に、大久保長安(ちょうあん)がいる。猿楽師の子に生まれ、金山開発で手腕を発揮し、江戸幕府創成期の経済官僚として絶頂を極めたが、その死後不正蓄財が発覚し、改易された。

 道成の子・平岡千道(ちみち)も同郷の大久保長安と親しかったらしく、大久保家改易に連座し、謹慎の目に遭ったが、後に許された。2代将軍・徳川秀忠の末男、徳川忠長が甲斐甲府藩主に任ぜられると、千道は忠長附となった。

 千道の子・平岡吉道は父と同じく忠長に仕えていたが、秀忠の死後、3代将軍・徳川家光によって忠長は改易。吉道は浪人になってしまうが、その後、家光に召し抱えられて幕臣に復帰。代官職を務めた。

 吉道の子・平岡道益(みちます)は、家光の次男・徳川綱重(6代将軍・家宣の父)が甲斐甲府藩主に任ぜられると、綱重附となった。甲斐国で農民一揆があった責任を取らされ、改易されたが、のちに復帰する(本当にこの家は改易と復帰の繰り返しが多い)。

 道益の子・平岡道哿(みちたか)は、綱重の子・家宣が将軍職に就くと、家宣に従って幕臣に取り立てられ、300俵を賜った。

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江戸幕府の11代将軍・徳川家斉。実父が一橋家の当主・徳川治済で、その母親が平岡の系譜に連なるおゆかの方。平岡家の一族から将軍の祖母が生まれたということになる。(画像は徳川記念財団蔵の家斉像、Wikipediaより)

平岡家9代目当主・平岡道弘、幕末になんと大名に取り立てられるも、安房船形藩を返上し静岡藩家老へ

 道哿の曾孫・平岡道忠は、徳川家慶(のち12代将軍)の小姓として仕え、天保2(1831)年に500石に加増される。将軍の側近くに勤めることができた背景には、後述するように一橋徳川家との姻戚関係があったからだと思われる。

 その養子・平岡道弘は、家慶の将軍就任後に昇進を重ね、嘉永2(1849)年に御側御用取次(おそばごようとりつぎ/いわゆる側用人)に取り立てられ、2000石に加増。嘉永6(1853)年に家慶が死去し、徳川家定の13代将軍就任後も引き続き御側御用取次に在任。14代将軍・徳川家茂にも信認されていたらしく、万延元(1860)年に4000石に加増され、文久2(1862)年8月に若年寄に任じられ、5000石に加増された。

 道弘は元治元(1864)年についに1万石に加増され、安房船形藩主、つまりは大名に列した。ところが、明治維新後、徳川家が静岡藩に転封となると、道弘は藩領を明治新政府に返上して、安房船形藩を廃藩とし、自らは静岡藩家老(のち大参事)となった。

 道弘は明治維新まで大名だったにもかかわらず、大名として認識されていない。「幕末の大名一覧」みたいな企画の書籍が出版されても、平岡道弘が採録されているのを見たことがない。それは、大名のほとんどすべてが明治維新後に華族に列しており、そこから逆算して江戸時代の大名の一覧を作成していると思われるのだが、道弘は自発的に廃藩して華族に列することを辞したため、忘れられたのだと思われる。道弘の事跡はほとんど知られていないが、慎み深い性格だったのだろう。

平岡家2代目当主・平岡千道の4男、道友のひ孫“おゆか”は一橋徳川宗尹の寵愛を受け、その孫が11代将軍・徳川家斉に

 平岡家は代官職を務めていたからか、理財の才に長け、子孫は代官や勘定方に取り立てられ、分家を興して幕臣に列した。

 平岡千道には4男があり、長男・平岡吉道が家督を継ぎ、次男・平岡道重の子孫は館林藩主の徳川綱吉(のち5代将軍)に仕えて幕臣となり、3男・平岡道賢(みちかた)は3代将軍・徳川家光に仕えて子孫は幕臣となった(綱吉の時代に改易)。

 4男・平岡道友も館林藩主の徳川綱吉に仕えて幕臣となり、綱吉が5代将軍に就任。世子・徳松が将軍家の嗣子になるに及んで、徳松に従って幕臣に取り立てられた。

 道友の子・平岡十左衛門某は代官、勘定方、御金奉行を歴任したが、御金蔵の金品を商人に預けて利回りをピンハネ。また、商人から贈賄を受けていたことが露見し、追放に処された。十左衛門の4男・細田時義は、十左衛門の同僚・細田時昭(ときてる)の養子となり、長男・細田喜時(よしとき)は一橋徳川家の小姓、次女・おゆかは一橋徳川家に奉公に出た。

 このおゆかが一橋徳川宗尹(むねただ/8代将軍・徳川吉宗の4男)の寵愛を受けて、一橋徳川治済(はるただ)を生んだ。治済の子が11代将軍・徳川家斉なので、おゆかは将軍の祖母ということになる。平岡の本家が家慶の小姓に選ばれたのも、その縁があったからではないだろうか。

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平岡準蔵というと、堤真一の好演で知名度爆上げ中の平岡円四郎が思い浮かぶが、親戚でもなんでもない。たまたま苗字が同じだけだったようだ。
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江戸時代末期の幕臣で明治の政治家・勝海舟。そういえば、NHK大河ドラマ『青天を衝け』にはまだ登場していないような……。(画像はWikipediaより)

平岡家2代目当主・平岡千道の3男、道賢の子孫は勝海舟だった

 意外なことに、千道の3男・平岡道賢の子孫に勝海舟がいる。

 道賢の子・青木正教(まさのり)が青木家の養子となり、その孫・青木長国(ながくに)が勝命雅(かつ・のぶまさ)の次女と結婚。命雅の子・勝曹淓(ともみち)に男子がなかったことから、長国の3男・勝元良(もとよし)が婿養子に入った。元良の娘が勝海舟の母・信である。

 なお、幕末の大奥老女として有名な瀧山は、元良の次兄・大岡常吉義方の娘で、勝海舟にとっては母の従姉妹に当たり、元良の姉が嫁いだ阿部正親(まさちか)は、家斉の側室・お万の方の従兄弟で、家慶附きになっている(紙幅の関係で系図には載せられなかったが)。こうみると、勝海舟には将軍家に近い親戚が少なくなかったことがわかる。

平岡家3代目当主、平岡吉道の長男、通房の子孫は平岡家の支流となる…そして幕末に平岡準蔵が生まれ、渋沢栄一と出会う

 話がかなりまわり道になったが、平岡準蔵もこの平岡家の一族である。

 吉道の長男・平岡道房は、父とは別に寛永18(1641)年に勘定方に取り立てられ、150俵を賜った。おそらく寛永10(1634)年に徳川忠長が改易され、父・吉道が浪人している間に、道房が理財の才を認められ、幕臣に取り立てられたのであろう。ひょっとしたら、父の復帰を根回ししたのかもしれない。父が幕臣として復帰すると、次男の平岡道益が家督を継いだので、道房の子孫は平岡家の支流になってしまった。

 平岡準蔵はその道房の子孫にあたる。江戸時代は、平岡四郎兵衛(しろうべえ)準(「じゅん」と記されることが多いが、諱は通常訓読みなので、「ひとし」だと思われる)を名乗り、明治維新後に準蔵と改名した(本稿では準蔵に表記統一する)。

 準蔵は講武所砲術教授方出役、歩兵頭波などを歴任し、300俵に加増。文久3(1863)年5月に上洛。慶応元(1865)年5月の長州征伐に従い、慶応3(1867)年1月に大坂町奉行に就任。目付を経て、同年10月に外国奉行、翌慶応4(1868)年2月に勘定奉行となり、2000石に出世した。明治維新後は静岡藩に移った徳川宗家に仕え、勘定頭を務めた。

 こうして平岡準蔵は、徳川家の財政担当者として、渋沢栄一とかかわり合うこととなるのだ。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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