私が店の外に出ると雨脚が激しくなっていた。もう深夜0時を回っている。見送りのホステスと話しながら、迎えの車に乗り込もうとした時だ。斜向かいに停まっていた車から、男が飛び出してくるのが視界に入った。男はこちらに向かって突進してくると、大声で叫びながら両腕を前に突き出した。パンッパンッと乾いた銃声。ホステスたちの悲鳴。わずか10秒ほどの出来事だった。神戸三宮の繁華街で私は銃撃されたのだ。
これが、10月3日より朝日放送でスタートするドラマ『ムショぼけ』第1話の冒頭シーンである。敵対する上島組長役の私を銃撃したのは、主役の陣内宗介役を演じる北村有起也だった。このドラマ原作者が当サイトでもおなじみの、親友の沖田臥竜だったことから、私も出演させてもらったのだ。
冒頭の10秒ほど、その中で私が写っている時間は数秒しかないが、ここから物語が始まる重要なシーンだ。ドラマの撮影自体はもちろん初めての経験である。
5月某日、神戸三宮の生田東門街、まだ人通りの残る繁華街を通行止めにして撮影は始まった。雨はスタッフが何本ものホースを空に向け人工的に降らしている。何事が始まったのかと見物人が遠巻きに集まり出す。
クラブからホステスに見送られて表に出てくる上島組長、ボディーガードが差し出す傘、黒塗りのベンツの後部ドアが開く。同じ場面を何度も撮り直す。立ち位置を数センチずらしてまた撮り直す。監督もカメラマンも、納得するまで何度でも撮り直すのだ。
こうして、撮影が終わった時には午前3時を回っていた。わずか10秒ほどのシーンを撮影するのに3時間を費やしたのだ。テレビドラマが作られる舞台裏では、これほどの熱量が必要なのである。ましてやそれが全10話の連続ドラマとなれば、想像を絶するエネルギーだ。
ドラマ『ムショぼけ』は、組織のために14年間服役したヤクザが時代に翻弄されながらも生きる意味を問う物語である。足を洗ったヤクザに社会は厳しい。それでも、もがき苦しみ這い上がるしかないのだ。14年間の空白を埋めて人生を取り戻す。主人公の陣内の姿は切なくも滑稽で思わず笑ってしまう。
ロケ地は、原作者の生まれ育った兵庫県・尼崎が中心で、登場人物のセリフはすべて関西弁である。物語のテンポの良さは関西弁ならではだ。
「ムショぼけ」とは、刑務所で長期間過ごしたことにより、出所後の社会生活に支障をきたす状態をいう。その原因は、刑務所と一般社会にある時間と自由の乖離だ。
社会生活において、人は自由を意識することがない。それは自由が当たり前だからである。拘置所や刑務所で自由を奪われて人は初めて自由を知り、自由であることの尊さを知るのだ。
時間もそうだ。刑務所では時間の流れや配分が決まっている。強制的、規則的な生活で無為に時を過ごし、やがて人生の浪費に気づくのだ。そして、奪われた時間と自由を渇望し、焦り嘆き悲しむ。
こうして、自由と時間は服役中に過度な期待となり、出所後の現実に戸惑うのである。玉手箱を開けた浦島太郎と同じだ。もちろん、個人差はあるが、服役期間や年齢によって「ムショぼけ」の度合いも違ってくる。
人は何らかの監禁状態に長期間置かれることで、異常な精神状態となる。拘禁反応と呼ばれる症状だ。
工藤会トップ判決の不条理
工藤会トップの野村悟被告に死刑判決が言い渡されたのは今年の8月だった。逮捕から7年という長期間の勾留は、もちろん独房である。74歳という年齢から考えても重度の拘禁反応の状態にあるだろう。
工藤会の起こした一連の事件はヤクザ社会においても強い非難がなされている。これだけの大事件がトップの命令なしに行われたとも考え難い。感情的には極刑で当然だと思う。
だが、判決要旨を読めばわかるが、起訴された4事件すべてに直接的な証拠はなく、推認によって事実認定がされている。犯行に野村被告の指揮命令があったと認定するなら、その命令系統の立証が必要なはずだ。ところが、実行犯の、野村被告から指示があったとする供述も一切ない。
どの行為が犯罪に該当するのかを明らかにして、事実の認定と量刑判断をするのが刑事裁判の基本原則であるはずだ。暴力団だからという理由で、その基本原則を曲げる事は許されない。また、元福岡県警警部補銃撃事件については、動機や目的さえ不明のまま有罪認定されていることにも驚いた。
暴力団が社会から忌み嫌われるのも理解できる。だが、法の下の平等は民主主義の原則だ。暴力団を辞めた者への風当たりも厳しい。自業自得と言えばそれまでだが、誰にでもやり直すチャンスはあるはずだ。地べたを這いずり回るように、新しい日常を求める元ヤクザだっている。陣内宗介も「ムショぼけ」と呼ばれながらも、必死に生きているのだ。
(文=猫組長〈菅原潮〉)