今般、少子化で子供の数は減少の一途をたどっている。それは、都心回帰で人口が微増している東京都も例外ではない。子供の数が減少していることに伴い、東京都23区内では小中学校の再編計画が急ピッチで策定されてきた。それと前後して、中学校の学区を廃止。区内の中学校なら、各家庭が自由に学校を選べる制度も導入された。「あの中学校は荒れている」「あの中学校は進路指導がしっかりしている」という保護者間の評判で、各中学校の浮沈が左右される。学校の選択制が導入されたことで、生徒が集まらない学校と集まる学校の差が鮮明になった。
従来から東京圏では、教育環境の整った私立中学校への進学希望が強かった。そのため、公立中学校は私立中学校に人気を奪われてきた。私立中学の人気が高まるにつれ、私立小学校の人気も高まったが、最近では人気は小康状態を保っている。その理由にあるのが、「ランドセルを背負って、電車通学は不憫」「自宅から遠い小学校に通わせると友達ができにくい」といった子供への気遣いがある。こうして、小学校は地元の公立、中学校から私立へ進学というコースが選択される。
しかし、同じ東京都23区の公立小学校でも、各区で教育水準や教育環境には段違いの差がある。一般的に、千代田区や文京区は教育環境が整っているといわれる。そのため、千代田区や文京区に引っ越して、子供たちを教育レベルの高い小学校に通わせよう、教育環境が整った地で生活をさせようと考える保護者は年々増加しているのだ。
子供を都心の小学校に入学させるため、わざわざ引っ越しをも辞さない保護者はいまや珍しくなく、そうした人々は「公立小移民」とまで呼ばれるようになった。
今般、人口減少から不動産価格は下落傾向にある。しかし、五輪特需に沸く東京都心部は話が別。価格は下がることなく、むしろ上昇傾向にある。東京五輪閉幕で特需も鳴りを潜め不動産価格はゆるやかに低下すると思われがちだが、業界からは五輪特需後の東京都心部も不動産価格は堅調に推移するとみられている。
東京都心部の不動産価格を下支えするのは、教育環境の良い地域で子供を育てたいと願う公立小移民だ。今般、都心にマンションを建設するデベロッパーの多くは、公立小移民か高齢者の富裕層のどちらかをターゲットに据えているが、「マンションデベロッパーからすると、公立小移民も富裕層の高齢者も上客です。しかし、地元住民からは前者のほうが圧倒的に喜ばれます」と明かすのは不動産関係者だ。高齢者世帯は消費が鈍い。逆に、子供のいる世帯は買い物などで地域に金を落としてくれる。地域にとって、ありがたい住民でもある。
マンション建設では、地元と仲良くやることが何よりも大きな課題になる。そのため、地域住民に喜ばれる公立小移民はマンションデベロッパーにとってもありがたい存在になっているのだ。
九段中等教育学校の成功事例
公立小移民を歓迎するのは、不動産業界だけではなくなっている。あまり大っぴらに喧伝することはないが、最近では基礎的自治体である市区町村も公立小移民を受け入れるための地盤整備に力を入れ始めている。その嚆矢となったと業界でいわれているのが、2006年度に千代田区が区立初となる中高一貫校として開校させた九段中等教育学校だ。
もともと、東京都では石原慎太郎都知事(当時)が“都立復権”を掲げて、2001年度から都立高校改革に乗り出し、進学実績の向上を図っていた。九段中は都立ではなく区立で、しかも中高一貫制。“都立復権”とは少し趣旨が異なるものの、私立に傾斜していた流れを公立に戻そうとする狙いでは一致している。実際、九段中は開校直後から人気が急上昇し、難関校になった。千代田区職員は、こう話す。
「九段中の前身である九段高校は名門校でしたが、近年は私立傾斜の流れが強くなっていたこともあって、人気も進学実績も芳しくありませんでした。ところが中高一貫に移行したことで人気は回復。進学実績も向上しています」
進学実績が向上したことを受け、九段中の人気はさらに上昇。一気に難関校になった。この成功を見て、ほかの区でも中高一貫制の区立中学・高校の開校が相次いだ。
九段中は区立のため、区内在住者を優先的に入学させる制度を採用している。区内在住者と区外在住者とでは入試倍率が大きく異なり、前者なら競争率はかなり低く例年2倍に満たない。対して、区外在住者の場合はおおよそ8~10倍と雲泥の差。在住者として受験するには中学・高校の最低6年間は区内在住を義務付けられ、区外に引っ越した場合は強制的に退学させられる。
「千代田区在住という厳しい条件があっても、『我が子に質の高い教育を受けさせるために九段に入れたい』という保護者は多く、最近では早期から千代田区に転入してくる世帯が年を追うごとに増えつつあります。そのため、千代田区は未就学児童が増加しており、待機児童問題対策が焦眉の急になっています」(千代田区職員)
教育格差の拡大
義務教育の小中学校は、誰でも“平等”に教育を受けることができる。しかし、それは建前にすぎない。カリキュラムは同じでも、その質までは担保されていない。公立小移民が社会現象化する背景には、教育格差が拡大を続けるなかで小学校のうちから質の高い教育を受けさせたい――という親心がある。
増加する公立小移民の行きつく先は、教育格差の拡大・経済格差の固定化だ。親の経済状態によって、子供たちの受けられる教育レベルが変わる。そんな話は昔から語られてきたことだが、今般は格差が拡大し過ぎていて、ひずみが大きくなり過ぎてしまった。
教育格差は賃金格差にも直結し、格差の固定は優秀な人材が育たない社会にもつながる。それは、国の成長戦略にも影響を及ぼす話でもある。過剰な競争社会が生み出した格差の固定化は、解決すべき社会問題として機会あるごとに語られてはいる。しかし、政府や行政は解決する政策を示せていない。
公立小移民の増加は、我が国の教育行政が閉塞していることを静かに物語る現象といえるだろう。
(文=小川裕夫/フリーランスライター)