それは筆者が仕事や打ち合わせをこなすために、地元・尼崎から上京していた1月中頃のことだった。スマートフォンの着信音が鳴ったので、画面に視線を落とすと、そこにはかつて筆者が仕えていた親分、二代目大平組・中村天地朗元組長の名前があった。
「どないや、変わりないか? 神戸の喫茶店あったやろう。明日、あそこのマスターの一周忌なんや。線香あげに行こう思ってるねんけど、身体空いてたら一緒にどうや」
この「神戸の喫茶店」とは、神戸市灘区の六代目山口組総本部近くにある店で、筆者が親分に仕えて総本部を訪ねた帰りによく利用していた場所だった。
翌日はまだ東京でどうしても外せない打ち合わせが数件入っていたので、その旨を中村元組長に伝えると「そうかそうか、かまへんかまへん。がんばるんやぞ」と声をかけていただいたのであった。
中村元組長という人は、カタギ、ヤクザかかわらず、少しでも縁があった故人の法要があれば必ず出向き、墓参も欠かすことがなかった。そこには、六代目山口組だとか神戸山口組だとかもいっさい関係がなかった。故人の祥月命日には、いつも目立たないように運転手だけを連れて、そっと墓参を済ますのである。そして、周囲にそれを口外することは決してない。ただきれいな花を供えて、墓前に手を合わせ、霊園をあとにするのだ。筆者は現役時代、その背中をずっと見ていた。
すでに週刊誌でも報じられているのだが、2月4日、初代山健組・山本健一組長の祥月命日があり、山本組長が眠る霊園には五代目山健組・中田浩司組長ら最高幹部が墓参へと訪れていた。そのなかには、中村元組長の姿があった。
中村元組長は山本組長の墓参を済ますと、三代目山口組時代にその名を馳せ、伝説のヤクザとして知られるボンノの親分こと菅谷組・菅谷政雄組長と初代岸本組・岸本才三組長の墓前にも参っている。
それだけではない。四代目山口組・竹中正久組長の祥月命日となる1月27日には毎年必ず墓参を行い、山口組中興の祖、田岡一雄組長の墓参りも決して欠かせていない。特に田岡三代目組長の墓参を行う際には、近隣住民に迷惑をかけてはいけないと、ひとりで訪れている。引退された今でも、プラチナ(直参)の組長の訃報が入れば、日本全国どこであろうが、故人となった親分が眠る霊園へと訪れ、墓前に手を合わせている。
ヤクザの生き方ではなく、人としての生き方
そんな中村元組長を取材したいと申し出てくるマスメディアは決して少なくない。筆者を通して取材依頼が来ることもあれば、著書を執筆してもらいたいという申し入れもあるのだが、中村元組長にその旨を伝えるといつもたった一言、こう言うのだった。
「生き様が違う」
そして、そのあとで必ず相手側を気遣い、「丁寧に断っておいてくれよ」と、にこりと笑うのだった。
現役時代も、ある実話誌の記者Sさんが中村元組長を取材することがあった。Sさんはそれが記事になると、掲載誌とともに取材時に撮影した写真をプリントして同封して郵送してくれていた。その御礼として、いつも「わざわざご丁寧に申し訳ありません。手前親分がくれぐれもよろしくお伝えくださいと申しております」と電話を入れていたのが著者であった。昨年、そのSさんが突然、逝去した。訃報を中村元組長に伝えると、「まだ若いのに……。ええ人やったのに残念や」と呟かれたのだった。
中村元組長は現役時代、一言も筆者に対して「極道とはこういうものだ」とか「ヤクザの生き方とはこうだ」などと、表面上の綺麗事を口にすることはなかった。ヤクザ社会のことは見て覚えろという教育方針で、いっさい口にされなかった。ただ、人としての常識を徹底的に教え込まれた。
半面、筆者が二代目大平組の直参へと昇格し、組長付きから執行部入りを果たした際、シノギの下手くそだった筆者に対して「ええか、ほかのもんには言うたらあかんぞ。お前は身体つことんねんから、会費は払わんでええ。ほかのもんには払ってる言うとけ。お前は自分の生活だけを、悪いことせんとやっていけ」と言われて、そこからはヤクザ社会から足を洗うまで、会費を納めることはなかった。
実際、暴力団排除条例が施行され、ヤクザ社会は急激に冷え上がり、筆者もヤクザを続けていくことに限界を感じていた。だが、中村元組長のそうした言葉に感化され、「どれだけ苦しくてもこの人が引退するまでは、石に齧(かじ)りついてでもヤクザを辞めるわけにはいかない」と考えていたのだった。ヤクザ社会に限らず、義理とか恩というのは、難しいものではなく、そういうものではないだろうか。