引退後に明かされた山一抗争秘話
「実はな、あの時なー」
中村元組長が引退され、それに合わせて筆者もカタギにしてもらった現在、酒が進むと現役時代、決して話してくれなかった昔話を聞かせてくれる。
「山一抗争が終わり、山広が本家に謝罪しにきた時あるやろう」
三代目山口組の跡目をめぐり、四代目山口組とそこから袂を分かった一和会との間で起こった史上最大の抗争「山一抗争」。5年にわたる争いは、一和会の山本広会長が同会を解散し、その後、山口組本家を訪れ、謝罪する形で集結する。その場面は、今でもYouTubeで見ることができるのだが、本家前に報道関係者や警察当局が陣取るなか、本家の扉が開くと、最初に登場したのが四代目山口組直参となっていた中村元組長だった。
「前の日に本家の執行部から電話があってな、『兄弟、明日本家に来る時に道具(拳銃)持ってきてくれ』と言われて、何か起きたときのために、実はあの時、ワシ、道具を腰にさしとったんや」
このとき、一和会の山本元会長には仲裁役だった後の三代目稲川会、稲川裕紘会長が同行していたが、山口組サイドとしてはそこで、この終結に納得しない不満分子が山本元会長を襲撃するようなことを許すわけにはいかなかった。その万が一に備えて、中村元組長は拳銃を隠し持っていたのである。
「あれだけ警察や報道陣が詰めかけているなかで拳銃を持っていたら、現行犯でパクらるかもしれんとかいう心配はなかったんですか?」
喉元まで出かかった言葉を著者は呑み込んだ。なぜならば野暮な質問だったからだ。もしなにかが起きていれば、中村元組長は迷わず銃爪(ひきがね)を引いて見せただろう。四代目山口組の首脳陣もそれを理解していたからこそ、中村元組長に密令を出したに違いない。それが中村天地朗という親分の極道としての生き様であった。
武士の生き様
昔話の最後には、決まって中村元組長は、こう口にした。
「お前が有名なってワシも鼻が高い。頑張れよ」
ヤクザ社会においても一般社会においても、人と人のつながりは、最終的に気持ちと気持ちではないだろうか。中村元組長の背中を見てきたので、筆者自身、獄中で亡くした父の月命日には墓参するようになった。何年もそれを続けているうちに、親族から墓守りを任されるようになった。どうしようもなかった筆者がヤクザ社会から足を洗い、一般社会に戻り、曲がりなりにもこうして迎合できているのは、中村天地朗元親分の人としての在るべき姿の教育のお陰だろう。
寡黙で律儀。引退後もその姿勢はいっさい変わらない。世間ではこういった生き様を武士と呼ぶのではないだろうか。「ヤクザだった人間が何を」を思われるかもしれないが、筆者はそう確信している。
(文=沖田臥竜/作家)