性犯罪で無罪判決が続いたのはなぜかーー江川紹子が考える、被害者救済のために本当に必要なこと
2014年から16年にかけて、強姦・強姦致傷等で検察の処分が済んだ事件のうち、起訴となったのは32~33%だった。ところが2017年の統計を見ると、6月までの強姦・強姦致傷等では起訴率が30%だったのに対し、7月以降の強制性交・強制性交致傷等は41%に上がっている。
まだ、データが少ないので断定的なことは言えないが、検察は、以前より性犯罪に対して積極的な対応をしつつあるのではないか。
今後、公判での検察側の立証レベルが向上し、性被害の現実についての裁判官の理解が深まれば、現時点では無罪となるケースが、有罪と認定されることも増えるだろう。国会は、捜査や裁判の現場で、附帯決議が生かされているかを注意深く確認し、刑事司法の現状を監察しつつ、被害者が泣き寝入りをする状況を減らすための議論をしてもらいたい。
刑事裁判の限界
ただ、その場合でも、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事司法の原則がないがしろにされないよう、注意を払うのを忘れてはならない。
性被害を訴えるのは心理的ハードルが高く、誰にも言えずに長年にわたって苦しんでいる被害者が少なくないし、だからこそ訴えがあった場合には、丁寧に耳を傾ける必要がある。けれども、性犯罪に関しても、冤罪があることは忘れてはならない。
大阪で、“被害少女”の虚偽証言で男性が有罪判決を受け、服役までしていた冤罪事件があった。1審の裁判所は、「14歳の少女がありもしない強姦被害をでっち上げることは考えにくい」などとして懲役12年の判決を言い渡し、それが高裁、最高裁で確定した。男性は、未決勾留も含めて約6年も身柄拘束された。“被害少女”が嘘の証言をしたことを告白し、それを裏付ける証拠もあったことから、男性はようやく釈放され、再審無罪となった。
裁判所は、性犯罪の被害者の供述を信じやすい。2009年に最高裁で有罪が確定した「御殿場事件」では、少年らに強姦されたという“被害少女”の供述が著しく変遷し、矛盾も多かったのにもかかわらず、裁判所が「十分信用できる」として、少年らに実刑判決を下した。このように、被害者供述を重んじ過ぎて、冤罪が疑われる事件も起きている。
「痴漢は犯罪」キャンペーンが行われ、警察が積極的に痴漢を摘発するようになってから、「痴漢冤罪」の訴えが続々なされるようになった。その二の舞いは避けなければならない。刑罰は、当事者同士の争いとは異なり、国が被告人となった者の権利を奪うものであることを考えれば、刑事司法の仕組みを考える時、冤罪防止は常に最優先にされる必要がある。
それをふまえれば、刑事裁判には限界があると認めなければならない。そのことを前提に、刑事手続きには馴染まない性被害をどのように救済していくかについても考えたい。
だが、こういう話をすると、「どっちもどっち」論だと非難する人が決まって出てくる。被害者と加害者を対立させ、どっち側につくかという二元論的発想である。
最近は、このように物事を単純化させる論評が流行らしい。たとえば前々回に書いた官邸の東京新聞記者への対応についての拙稿について、ジャーナリストを名乗る人からさえ、「どっちもどっち」論だという論評があったのには唖然とした。このようなシンプル脳で、性犯罪に関しても、被害者と加害者のどちらにつくのかといった二元論的な思考に陥ってはいけない。
社会の物事の多くは、複数の価値観が交錯している。そんななか、大事な価値観を優先しながら他の価値観の実現を考える複眼的な思考が必要だ。絶対的な善悪を求め、どっちの見方になるかという単純化をせずに、複数の価値を照らし合わせ、よりよいものを考えていく比較級の発想こそ大事にしたい。
性犯罪への対応など、その最たるものである。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)