自衛隊の広報が大きく変わりつつある。民主主義国家の防衛組織である自衛隊の広報の考え方、および姿勢の変化は、日本社会におけるその時々の自衛隊が置かれた位置を示している。
1月31日、航空自衛隊F15戦闘機が墜落したとみられている。乗員2名が行方不明である(2月7日時点)。一刻も早く乗員らの安否が確認されることを願うばかりだ。
こうした自衛隊の航空機や艦船による事故発生時、令和の今であれば、その関心は「なぜ事故が起きたのか」に尽きる。加えて、今回のF15戦闘機事故であれば、乗員らの安否、一般市民で事故に巻き込まれた人がいたか否か、もしいたならば、その人たちの安否である。
自衛隊の事故、まずは「悪は自衛隊」という報道姿勢
だが、かつてはそうではなかった。自衛隊による事故といえば、真っ先に「長官(大臣)の責任問題」であり、「関係者の処分の有無」だった。事故の当事者である自衛隊保有の航空機や艦艇の乗員の安否などは二の次。とにもかくにも事故の責任は自衛隊側にあり、航空機や艦艇を操る者、航空機ならパイロット、艦艇ならその長が“悪”であると決めつけることが善しとされる風潮がまかり通っていた。メディアもまた然りである。
これは太平洋戦争の日本の敗戦、そこに大きく関わった旧陸海軍憎しという、戦後間もない時期の国民感情を引きずったものだろう。敗戦により旧軍は廃止。だが国家として、やはり防衛は必要だ。旧軍とは別組織という体で、自衛隊が発足した。
しかし、その自衛隊は、かつて日本を敗戦に追いやった旧陸海軍将校らが幹部として多数入隊し、組織づくりを行った。旧軍とは無関係といいながらも、当時の国民感情からすれば、さぞかし「旧軍の亡霊」を見る思いだっただろう。この当時の国民の思いは、自衛隊への低評価、盲目的な反発へとベクトルを向けていく。
自衛隊の側も、これに反応した。組織とは人の集まりだ。自分たちの仕事を正当に評価されない、また聞く耳を持ってくれない国民相手に自衛官たちは心を痛めた。
とりわけ、全国各地の自衛隊各部隊で広報を任された者たちは、自衛隊で事故や不祥事が起きるたび、その実情を冷静に説明しても、きちんとその思いが伝わらないことに歯噛みする。いつしか自衛官の側が一般国民を毛嫌いし、距離を取るようになった。ひいては自衛隊という組織が国民と距離置く。左翼、革新といわれる思想が流行っていた時代の話である。
元自衛隊広報担当者「敵はマスコミ」
それに、戦後すぐからバブル期までの時期、志を持って自衛隊に入隊する人は今日では考えられないほど少なかった。社会全体で国防を語ることが憚られる時代である。入隊を考える者は周囲から変わり者、危険人物扱いされることもあったという。
こんな話がある。今は陸自の曹長が高校時代、進路担当の教員に「自衛隊志望」である旨を伝えたところ、その教員はこう言い放ったという。
「俺は教え子を戦場に送るつもりはない。もし自衛隊への入隊を強行するなら、卒業式には出さない」
一方で、こんな話もある。すでに定年退職で現役を退いた海自の元2尉は高校時代、今でいうやんちゃ、当時の言葉では「つっぱり」で鳴らしていた。卒業後について、進学も就職も真剣に考えていなかった高3のある日、担任教師から呼ばれた。
「行くところがないのなら、自衛隊でも行ったらどうか。根性を鍛え直してもらえ」
入隊後、自衛隊で愛国心を叩き込まれ部隊勤務10年以上を経て、隊員募集や広報業務を任されるようになったこの2尉は、その任務中、インテリ気取りのマスコミ記者や革新系の思想を標榜する高校教師らと邂逅時、いつも「こいつらこそ本当の敵だ」との思いが拭えなかったと、その心情を率直に吐露した。
自衛官といえど人である。自らと自らの組織を理解しない者相手に不愛想な応対となるのもまた人情だろう。
そうした背景もあってか、その発足から長らく、自衛隊の広報といえば「ぶっきらぼう」「態度悪い」といった悪評が国民の間では通り相場という時代がバブル期くらいまで続いた。自衛隊への理解が国民の間で遅々として進まず、その組織がともすれば危険視されていたピークはバブル期だろう。
実体なき好景気に沸いたこの時期、世に仕事はいくらでもあった。フリーターという言葉も出てきた。イベント設営・撤収といったガテン系バイトの日給は、当時を知る人によると最低でも1万円、時には3万円を超えることもあったという。日給2万円の仕事を10日もすれば20万円という計算だ。月に20日も働けば、月収は30万円を超えたと話す。
対して自衛官は24時間勤務、決まった居住地に住み、自由がない。任務は過酷で厳しい。月給はフリーターにも劣る始末だ。バブル期真っ只中の1988年当時、高卒で入隊した人は、「初任給は手取りで13万円くらいだった」と、往時を振り返る。職業への誇りは給与の多寡で決まるものではないが、それでも給与ひとつとっても自衛官たちは、自身と自らが属する組織に誇りを持てなかった。
自衛隊を叩くなら誤報もまかり通ったバブル期の時代
国民全体が自衛隊を軽んじ、自衛官たちがそれに耐えていた時、ちょうどバブルの好景気に国民全体が浮かれていた時期に起きたのが、「潜水艦なだしお遊漁船第一富士丸衝突事件」、世にいう「なだしお事故」だ。
今日、この事故に関しては、メディア側による検証もなく一方的に自衛隊側が悪いとされたケースとして、自衛隊・報道の両関係者の間で認識されている。なだしお乗員が救助活動を行わず、ただ溺れる遊漁船乗客を見ていた、といった報道がそれである。
事故後、なだしおの艦長は世論からの激しいバッシングに晒され、禁固2年6カ月執行猶予4年の判決に伴い失職。失意の中で自衛隊を去った。関係者によると、自衛隊に残った艦長以外の元乗員らは、“元なだしお乗員”とのレッテルを貼られ、他の勤務先に異動後も白眼視され肩身の狭い思いをするだけでなく、昇進できず昇給もないといった不利益に晒され続けたといわれている。直接、事故とは関係のないセクションで勤務した者ですら、そうだった。すべて世論への配慮だったという。
自衛隊憎しの世相が、こうした誤報も是とする。その風潮は2008年の「護衛艦あたご漁船清徳丸衝突事件」、すなわち「護衛艦あたご事故」まで続く。自衛隊を取り巻く状況、国民の見る目、メディアの自衛隊を見る目も少し変わりつつあった時期である。
1995年の阪神・淡路大震災での自衛隊の活躍により、国民は自衛隊を高く評価。これを境に、かつてのような一方的な自衛隊憎しという声は鳴りを潜めつつあった。
一方的なバッシングに晒された2008年の護衛艦「あたご」事故
ところが、この「あたご事故」により、再び自衛隊バッシングの嵐が吹き荒れた。当時の様子、それも当事者側から記されたインサイドウォッチがある。
事故から10年を経た2018年、「日刊ゲンダイ」(講談社)に連載された『リバイバル~転落からの復活~』中の、『イージス艦あたご衝突事故 乗員たちは酒盛りしていない』と題した記事がそれだ(2018年3月20日付日刊ゲンダイ記事)。
記事によると、事故直後に報じられた「乗員らが酒盛りをしていたために見張りが手薄となり事故に繋がった」「事故後、防衛省からの聴取に応じるためヘリコプターに搭乗した航海長が酒ビンを海中に投棄した」との報道は、すべて誤報であり、裁判記録にもそうした記述はないとし、加えて事故で責任を問われた水雷長、航海長の2士官は、その後の裁判で無罪判決。その後、護衛艦の艦長や博士号を取得、研究職として復職したことが詳説されている。
自衛隊関係者によると、この記事の取材、掲載にあたっては、海自内部で激論が交わされたという。当時を知る自衛隊関係者は言う。
「記事の趣旨が『転落からの復活』です。確かに、2士官は無罪判決となりました。しかし、国民2人が事故で亡くなっています。だから、その後日談にわざわざ『2士官の復活、活躍』を広く伝える必要性はないとの理由で、丁重にお断りしました」
こうして一旦は、記事化が避けられたかにみえた。だが、一部隊員たち、とりわけ元あたご乗員らは、これに納得しなかった。元あたご乗員は次のように語る。
「事故直後から今までいわれのないバッシングを受けた。やっと2士官に無罪判決が出ても、なぜ我々は正しいこと、真実を語れないのか」
こうした元あたご乗員らの声を受けて動いたのが、日刊ゲンダイで記事を執筆した経済ジャーナリストで本サイト執筆陣のひとりである秋山謙一郎氏と、日刊ゲンダイのO記者とされる。記事に署名のある秋山氏に聞いた。
「事故とは起きてしまうものです。その後、無罪判決を得ても、なお名誉が回復されない現状は好ましくはないと考え、2士官の取材を海上自衛隊にお願いした次第です」
だが、自衛隊側からの返答は「ノー」。それでも元あたご乗員らは「2士官の声を広く外に伝えてほしい」と海自当局、そして“敵”である日刊ゲンダイ側にも要望した。
かつての苦い経験から広報巧者へと成長した自衛隊
日刊ゲンダイ取材陣は、とりわけ元あたご乗員らから「この事故を世間に正しく伝えられるのは(元)航海長しかいない」というリクエストを受け再度、海自当局に強くインタビュー実現を申し込んだ。前出の自衛隊関係者は言う。
「日刊ゲンダイ側の強いリクエスト、元あたご乗員らの声を受けて、当時の海上幕僚監部広報室の報道主任、U2佐が奔走。最終的には海上幕僚長にまで掛け合ったと聞く」
それでも結果は、「海自として取材受けはノー」という結論そのものは覆らなかった。しかし同時に奇妙な補足が海自上層部からなされたという。
「日刊ゲンダイ側が元航海長に取材を強行した場合、その際のやり取りについては、言論の自由に照らして海自として何も言わない。また言ってはいけない領域だ――」
組織としてはノー。上層部個人としては黙認。ゆえに組織としてはOK。こうした形で元航海長の紙面登場が実現したというのである。記事を執筆した秋山氏は、「古い話で、もう忘れました。記事に書いたことがすべてです」と、詳細を語ることは避ける。だが、次のように心境を述べた。
「願わくば、あの原稿で元あたご乗員らが事故直後、世に伝えたかったことが広く世に正しく伝わってほしい。ただそれだけです」
これ以上を語らなかった秋山氏だが、複数の自衛隊関係者らによると当時、日刊ゲンダイがこの連載で海自側にリクエストした取材は、この護衛艦『あたご』の元2士官の近況のほか、次のようなテーマだったという。
「元特別警備隊長、3P提督と呼ばれて。文春砲に反撃開始」
「痴漢冤罪事件、冤罪が晴れるまで。当事者となった現役幹部自衛官その後」
これら日刊ゲンダイ側のリクエストに海自側は、やはり「協力できない」旨を決定したという。その理由は、痴漢冤罪事件の当事者となった幹部自衛官については、「痴漢被害者もまた国民のひとり。いくら冤罪だったとはいえ、国民を守る立場の自衛官が紙面に登場、その後の活躍の紹介と同時に、『冤罪でした』とマスコミが伝えることは、当の痴漢被害にあった女性、即ち、守るべき国民を苦しめることになる」としている。
しかし、女性問題について写真入りで「週刊文春」(文藝春秋社)に報じられた元特別警備隊長については、「言論の自由。民間マスコミの取材について海自はとやかく言う立場にない」と、意外にも自衛隊内部からも日刊ゲンダイ側に援護射撃がなされたといわれている。そこでは、「大いに書いてもらえ」との声まであったという。
再び秋山氏に、当時の海自当局の対応について聞くと、痴漢冤罪事件については「痴漢冤罪を世に知らしめられなかったことは残念」とし、元特別警備隊長の女性問題への対応については、「怖い組織ですよね」と言ったきり口を閉ざした。
かつて自衛隊の広報は、内部では第一線から退いた人が就く閑職とまで言われていたものの、自衛隊の人材難に泣いたバブル期前から、自衛隊という組織そのものの広報の重要性も相俟って「優秀な人材が送り込まれる」ようになったという(元陸上幕僚監部広報室勤務者)。
事実、幹部自衛官のなかには、TBS系列でドラマにもなった有川浩の小説『空飛ぶ広報室』でも触れられているように、電通、博報堂といった大手広告会社に出向、研修を受けた広報の専門家もいるくらいだ。
その広報を専攻する幹部自衛官らによって自衛隊の広報は、まるで公用文さながらで無味乾燥な、およそ「広報の体をなさなかった広報」から、軟派系のソフト路線と硬派なハード路線をその時々の社会情勢に合わせて巧みに使い分けていくようになる。
マスコミは敵ではなく味方へ
また、広報に携わる隊員たちの意識も変わった。ある元空幕広報室員は言う。
「(マスコミ記者らから)ただ聞かれたことに応えるのではなく、日頃から彼らと付き合い、彼らの関心事がどこにあるかを見いだし、それに合わせた広報を心掛けるようになった。彼らを敵ではなく“潜在的な味方”と考えるようにした」
こうした自衛隊の広報への捉え方が変わったこともあってか、2014年の輸送艦「おおすみ」とプレジャーボートの衝突事故では、それまでの自衛隊絡みの事故の第一報は「自衛隊悪」とする風潮から、まずは客観的に事を見極めるという冷静な対応へと変わったといわれる。
この自衛隊における広報の捉え方、広報戦略の変化により、国民、とりわけそれまで自衛隊に批判的だった人への理解につながったに違いない。これからの広報の在り方、戦略は、民間企業でも今後参考になる好例といえよう。
(取材・文=川村洋/フリーライター)