3月30日、暴力団や裏社会などの問題を扱ってきた作家の宮崎学氏が亡くなった。弁護士で参議院議員を2期務め、『行列のできる法律相談所』(日本テレビ系)出演などでも注目される丸山和也氏は、大学時代に宮崎氏とクラスメイトだったという。そこで、丸山氏に宮崎氏との思い出について聞いた。
「おもろいもの見せてやる」
――3月30日に逝去した宮崎学さんとは早稲田大学法学部の同じクラスで、卒業後も親交があったそうですね。
丸山和也氏(以下、丸山) はい。実はこの半年くらい電話をかけても出なかったので、気になってはいました。クラス会のメールには時々返信があるんですが、どうしてるかなと。宮崎とは第二外国語が同じスペイン語で、このときのクラスメイトたちとは卒業後も交流していて、定期的にクラス会も開いていました。コロナ禍で休止になるまでは、宮崎も毎回来ていました。
――スペイン語選択とは珍しいですね。
丸山 フランス語やドイツ語はメジャーでつまらないじゃないですか(笑)。宮崎も他のクラスメイトも、みんなそう思ってスペイン語にしたんだと思います。宮崎とは生まれも育ちも全然違うんだけど、最初からウマがあって、よく一緒にメシを食ったりしていました。
――宮崎さんのお父様はヤクザの親分ですから、生育環境などはかなり違いますよね。
丸山 僕の父親は教師で、厳しい家庭で育ったので、無頼で放蕩みたいな生き方は、むしろうらやましかったですね。宮崎は世間のこともいろいろ知っていて、僕にはないものを持っていました。
――デビュー作『突破者―戦後史の陰を駆け抜けた五十年』(南風社)などによると、子分の組員さんたちに囲まれて育っていらっしゃいますから、「社会勉強」はいろいろされているのでしょうね。
丸山 おもしろい思い出はいっぱいありますよ。いつだったか、宮崎の下宿に遊びに行ったときに、「おもろいもの見せてやる」と言われてね。エロ本でも見せてくれるんかなと思ったら、なんと拳銃だったんです(笑)。押入れから出してきて。
――押入れから(笑)。
丸山 それも小型ではなく、けっこう大きくてね。「持ってみろ」「弾(たま)もあるんや」って宮崎に言われて(笑)。持ってみたら、かなり重かったです。えらいもん持っとるなあと思ったけど、宮崎らしくて意外ではなかったですね。
――大学生で拳銃を持ってるなんて、宮崎さんだけでしょうね(笑)。
丸山 そうですね。何事も有言実行で。本人はあっけらかんとしてましたね。
「僕が憧れていた喫茶店のウェイトレスと…」
――入学された1965年頃は、早大の学内は学費値上げ反対闘争で荒れていましたね。
丸山 はい。全国的に学生運動が過激になりつつある時代でした。僕らも入学してすぐにクラスが閉鎖され、しばらくは講義も行われませんでした。キャンパスの入り口も学内も「学費値上げ反対」とか「粉砕」とか書かれた立て看板ばかりでね。
僕らのクラスでは宮崎だけが民青(日本民主青年同盟/日本共産党の青年組織)で学生運動を一生懸命やっていて、アジテーションもうまかった。クラスメイトたちは、政治的主張はどうあれ、みんな宮崎を好きだったと思います。明るくて行動的だから人気はあって、クラス委員もやっていました。弱い者いじめはしないし、優しかったんです。笑うとかわいいしね。
――かなりコワモテのイメージが強いですが、そうでもないんですね。
丸山 そうですね。実家が裕福だからカネ回りもよくて、優しいからモテていたと思いますよ。僕が憧れていた喫茶店のウェイトレスと付き合ってたのを知ったときはショックだったけど(笑)。きれいな女性でした。
――(笑)。それはショックでしたね。
丸山 そうですね(笑)。あの頃の早稲田の学生は僕を含めて地方出身者が多くて、のんびりした雰囲気だったけど、宮崎は都会的で垢抜けた感じでした。それと、権力への怒りがあってね。在日韓国・朝鮮人や被差別部落民、障碍者への差別などに問題意識を持っていました。
――宮崎さんは18歳で日本共産党に入党していますが、差別に対する問題意識から革命を目指したようです。
丸山 宮崎の京都の実家に遊びに行ったことがあるんですが、若い衆は「選挙になると、オヤジ(宮崎さんの父・会津小鉄系組織の組長)は『自民党へ入れろ』と言うんですが、ぼんは『共産党へ入れろ』言うんで困ってるんですわ」とこぼしてましたよ(笑)。宮崎は若い衆から「ぼん」と呼ばれていて、お母さんにも甘えてましたね。
あの“大女優”も同窓生だった早大時代
――当時の早大には、女優の吉永小百合さんもいらっしゃいました。
丸山 はい。僕は3年生から司法試験の受験勉強を始めて、毎日図書館にこもっていたのですが、何回か吉永さんを見かけたことがあります。すでに大スターだったから、吉永さんが来ると、いつも静かな図書館がざわつくんです。最近は有名人が来たら取り囲んじゃうみたいだけど、僕たちの世代は遠巻きに見ているだけでした。
学内の公衆電話を使っていて、隣を見たら吉永さんが電話をかけていたこともありました。でも、硬直しちゃって何も言えませんでした。我ながらかわいいもんですね。
宮崎は学生運動、僕は受験勉強であまり会うことはなくなっていきましたが、社会人になってからも連絡は取っていて、弁護人を頼まれたこともあります。
――丸山先生は参議院議員も2期務められていますが、法律の専門家として国会はいかがでしたか?
丸山 辞めたいと何度も思ったけど、いろいろ問題点も見えましたね。特に日産のカルロス・ゴーン元会長の国外逃亡については、もっと追及すべきだと思います。僕から岸田文雄首相にも進言したのですが、特に動きはないですね。日本の司法がこれだけ真正面から踏みにじられて黙っているのは、おかしいじゃないですか。
「こんな事件、宮崎しかできない」
――司法の問題といえば、グリコ・森永事件についてはいかがでしょうか? 警察庁広域重要指定事件としては初の未解決事件でもあります。1984年3月に、当時の江崎グリコ社長が誘拐される事件に端を発する企業脅迫事件です。警察官が目撃した犯人のモンタージュが「宮崎さんに似ている」と話題になりました。
丸山 クラスメイトたちと「この写真、宮崎だよな」「こんな事件、宮崎しかできないんじゃないか」「たいしたやっちゃな」という話をしたことはありましたね。むしろ「こんな事件、宮崎しかできない」というような褒め言葉でした。僕は直接聞いてみたことがあるんですが、宮崎は表情を変えずに「俺にはアリバイがあるからなあ」「誰がやったか、だいたいのところはわかっている」みたいなことを言っていました。
――ケンカはしたことはないんですか?
丸山 学生時代から一度もありません。宮崎もいいかげんなところはあったし、昔から好き勝手して暴れまくってたけど(笑)。やりたいことを全部やって死んだんじゃないかな。
――死亡診断書では「老衰」とされて、ご家族やスタッフのみなさんはショックだったようです。亡くなった当日もスタッフと電話で仕事の打ち合わせをして、夕食も普段通りにとっていたそうですね。お骨も、斎場の方が驚くほどしっかりしていたそうです。
丸山 あいつは若いときからいいもの食ってたから、きっと骨もしっかりしてるんですよ(笑)。僕たちは学生食堂のアジフライ定食なのに、宮崎は外のレストランでハンバーグを食べていましたよ。
――それはすごいですね(笑)。
丸山 いろいろ楽しい奴でした。宮崎らしいバイバイの仕方で、死んでも心に残ります。波乱万丈といいますか、最期まで彼らしい生き方をしたことに、友人たちはみんな羨望していると思います。
今は、宮崎には「いろいろしゃべったけど、文句あるか? その通りやろ?(笑)」って言いたいですね。
――ありがとうございました。
(構成=Business Journal編集部)
●丸山和也(まるやま・かずや)
弁護士法人丸山総合法律事務所代表。1946年兵庫県生まれ。69年に早稲田大学法学部卒業、70年司法試験合格。アメリカでの留学・法律事務所勤務を経て都内で開業。『行列のできる法律相談所』(日本テレビ)の出演で人気を博し、2007年から参議院議員を2期務める。タレントのほかマラソンランナーや歌手など多彩な活動で知られる。