アメリカのドナルド・トランプ前大統領が7月8日、自らが中心になって立ち上げたSNS「トゥルーソーシャル」に、次のように投稿した。
<安倍晋三氏がどれほど優れた指導者だったかを知る者はまだ少ないが、歴史は公平であり、のちに誰もがそれを知るようになるだろう。安倍氏には彼一流の、しかも飛び抜けた統率力があり、素晴らしい祖国である日本を愛し大切にしてきた。安倍晋三がいないことは大きな悲しみを生むだろう。彼のような人物はもう決して現れない(拙訳)>
亡くなった者に賛辞を送るのは、元首脳としては当然の礼儀だ。だが、この投稿が弔意を示すものとして異質なのは、「安倍晋三氏がどれほど優れた指導者だったかを知る者はまだ少ない」と、安倍氏が過小評価されているという事実で始めている点だ。
日本で安倍氏ほど世界の首脳の信頼を勝ち取ってきた首相はいなかった。アメリカのドナルド・レーガン元大統領と「ロン・ヤス」と呼び合う関係だった中曽根康弘氏は、世界で日本の首相はなかなか名前すら覚えてもらえないなかで例外的に目立った宰相だったが、安倍氏は「世界のハブ」として、世界の首脳陣を統率する地位にあった点で圧倒している。安倍氏は日本の首相としては桁違いに信頼を集めた首相だったと言っていいだろう。
2016年11月のアメリカ大統領選は、大番狂わせだった。大本命だった民主党のヒラリー・クリントン氏に、当初は泡沫候補とみられていた共和党のドナルド・トランプ氏が圧勝。外務省はトランプ氏の勝利を予想しておらず、日本の対米外交はスタートから立ち後れて混乱した。だが、安倍氏はすぐにニューヨーク市にあるトランプタワーを訪れて、外国首脳として初めてトランプ氏との面会を果たした。
安倍首相はトランプタワー訪問の手土産として、日本製ドライバーを持参した。トランプ氏が大のゴルフ好きであることをリサーチしており、次の会談をゴルフ付きでやりたいという意志を示せる。この細やかな心遣いは、安倍外交のひとつの特徴となっている。
たとえば、ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相は、次のような安倍評を述べている。
<私が首相になったとき、安倍氏は正式にお会いした最初のリーダーの一人でした。安倍氏は自分の役割にしっかりと取り組み、また寛大で親切な方でした。私がペットの犬を亡くしたばかりのとき、安倍氏がそのことを尋ねてくれたことを覚えています。些細なことですが、安倍氏がどのような人物であるかを物語ってくれます(拙訳)>
ペットの犬が亡くなったことに言及するのは、日本人同士であれば日常生活でごく普通に行われる。安倍氏は国際的に著名な政治家になっても、そういった普通の部分を忘れることなく、外交でもその細やかな心遣いを発揮した。
安倍氏の能力を見抜いたイバンカ氏
安倍氏とは、筆者も一度だけ食事の席に混ぜてもらったことがある。大政治家とは思えないほど気さくで心遣いのある人物で、やがて私たちが心を惹かれる安倍氏の魅力の根源が育ちの良さにあることがわかった。
実際、安倍氏はトランプ氏以外にも、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領やイギリスのボリス・ジョンソン首相、トルコのエレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領、インドのナレンドラ・モディ首相、フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領など、一癖も二癖もある世界の猛者たちを籠絡し、強固な関係を築いた。生き馬の目を抜くような血みどろの競争の中で勝ち上がってきた世界の首脳たちも、一国の首相となっても育ちの良さから来る美徳を失わない安倍氏に魅力を感じていたのだろう。
トランプ氏は安倍氏と面会するにあたって、自身がもっとも信頼する長女のイバンカ氏、イバンカ氏の夫のクシュナー氏、そして側近としてもっとも信頼を寄せていたマイケル・フリン氏(のちの国家安全保障問題担当大統領補佐官で、ロシア疑惑に巻き込まれて失脚する)の3名を伴った。
トランプタワーでの会談で、最初に安倍氏を評価したのは娘のイバンカ氏で、父に「安倍氏の意見を取り入れるべきだ」と進言したとも伝えられている。もっとも信頼する娘の意見が効いたのか、トランプ氏は安倍氏に全幅の信頼を置き、安倍氏のアドバイスを積極的に取り入れた。
トランプ政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官を務め、のちに決別したジョン・ボルトン氏の反トランプ基調の回顧録では、「トランプ氏が個人的にもっとも深い関係を築いているのは安倍首相だ」と断言している。トランプ氏が安倍氏とゴルフをプレイした回数は5回に上り、誰にも邪魔されない空間で長時間語り合い、親交を深めていった。
拉致問題解決への情熱
安倍氏によると、トランプ氏はかなり純粋かつ情熱的な人物で、こちらが真剣に語りかけると真剣に答えてくれるという。
両氏の首脳時代、安倍氏がトランプ氏にもっとも強く働きかけたのが、北朝鮮による日本人拉致問題の解決だ。憲法の制約から北朝鮮に軍事的圧力をかけられない日本政府としては、北朝鮮から拉致被害者を奪還するにはアメリカの協力が欠かせないと考えた。安倍氏は誠心誠意、拉致被害者奪還への意欲を伝え、トランプ氏もやがて日本人拉致問題に関心を寄せて、拉致家族との面会も果たす。2018年4月17日の安倍・トランプ会談の直後、トランプ氏は次のように発言している。
<いいかな、私たちが会食していたときのことだが、安倍首相が拉致について、またそれがいかに悲惨なことかを話し始めた。そう、安倍首相の情熱は、それはそれはすさまじいものだった。まさにそのとき、昨夜の食事中だが、私は安倍首相に言ってやった。この問題では本当に必死にやろう、一緒にがんばって、みんなを祖国に帰してやろうって(拙訳)>
トランプ氏が日本人拉致被害者のために働いても、国内的に何の得もない。だが、トランプ氏は安倍氏の悲願である拉致被害者奪還への情熱に触れて、損得勘定抜きでひと肌脱いだのである。結局、2度目の米北会談での決裂で拉致被害者奪還は果たせなかったが、安倍氏の情熱が拉致被害者奪還実現に近いところまでトランプ大統領を動かした事実は動かない。
日本外交が世界のハブへ
「難物」と言われたトランプ氏を動かすのは簡単ではなかったが、実際、安倍氏の言葉には素直に従うことが少なくなかった。自国第一主義に陥って制裁関税を中国から拡げていくなかでも、日本は比較的、軽く済ますことができた。トランプ氏と安倍氏の信頼関係が、これまで米国追従に終始していた日本外交を、「世界のハブ」へと飛躍させた。多くの国がアメリカとの交渉で日本を頼るようになったのである。
その結果、日本主導で「自由で開かれたインド太平洋」や「クアッド」といった国際連携が生まれ、アメリカ抜きのTPPも始動することとなった。革命防衛隊の工作によって失敗はしたものの、アメリカとイランの関係でも安倍氏は仲介役を担った。日本が国際舞台の中心となったのは、安倍氏が各国首脳からの信頼を勝ち取り、最後は「シンゾーしかいない」という存在になったからだろう。
首相辞任後も、外交における安倍氏の存在感は絶大だった。台湾防衛において政府が慎重姿勢を貫く一方で、安倍氏は「日本が台湾を防衛すべきだ」と断言して、中国からの批判を浴びながらも怯むことがなかった。
トランプ氏が安倍氏の過小評価に言及したのは、日本的な細やかな心遣いと育ちの良さから来る人当たりの良さなどが、これまでの外交になかったものだったからだろう。それまでの外交というと、力と力のぶつかり合いのパワーゲームが普通だったのだが、安倍外交はまるで違っていたのである。
トランプ氏は安倍氏の真の能力を知っていて、それがのちに評価されるであろうと考えていたのではないだろうか。
安倍氏が外交の舞台からいなくなったことは、日本外交にとっては大損失である。心からご冥福をお祈りする。
(文=白川司/評論家、翻訳家)