大震災の余韻が消えない中、不倫暴露作戦決行~“無名”な新聞社社長に注目を集められるか?
業界最大手の大都新聞社の深井宣光は、特別背任事件をスクープ、報道協会賞を受賞したが、堕落しきった経営陣から“追い出し部屋”ならぬ“座敷牢”に左遷され、飼い殺し状態のまま定年を迎えた。今は嘱託として、日本報道協会傘下の日本ジャーナリズム研究所(ジャナ研)で平凡な日常を送っていた。そこへ匿名の封書が届いた。ジャーナリズムの危機的な現状に対し、ジャーナリストとしての再起を促す手紙だった。そして同じ封書が、もう一人の首席研究員、吉須晃人にも届いていた。その直後、新聞業界のドン太郎丸嘉一から2人は呼び出され、大都、日亜両新聞社の社長を追放する算段を打ち明けられる。しかし、その計画を実行に移す直前に東日本大震災が起こった。震災から2カ月を経て、太郎丸が計画再開に向けて動き出した。
5月26日、木曜日は大地震からちょうど76日目だった。曇天だったが、午後には南東の風が吹き始めた。気温も20度を超え、少し汗ばむような陽気だった。
日本ジャーナリズム研究所首席研究員の深井宣光が料亭「すげの」の硝子戸を開けたのは午後3時半少し前だった。2週間前の5月12日、会長の太郎丸嘉一が次の打ち合わせの日時として指定したのは午後4時だった。しかし、深井は時間を持て余し、30分以上早いのは承知で、門をくぐった。
この2週間、太郎丸からは何の連絡もなかった。大都新聞社長の松野弥介と日亜新聞社長の村尾倫郎の不倫現場の新しい写真を撮るべく、探偵の追跡調査がどうなっているのか、気にならないわけではなかった。しかし、新しい写真が撮れても撮れなくても、太郎丸は暴露計画を実行するつもりだった。深井は「タイムリミットの26日に再度会えばわかることだ」と思い、途中経過まで知りたくなるほど、熱意はなかった。
太郎丸は新しい写真が撮れなくても、二人を退陣に追い込めると自信満々だった。だが、深井は内心、仮に新しい写真が撮れても、そんなに甘くないと思っていた。何百年に一度遭遇するような大地震から3カ月足らずだ。新聞はもちろん、週刊誌もいまだに大地震関連の記事が溢れかえっている。その現実を直視すれば、二人の不倫など、マイナーな話だ。しかも、二人はジャーナリストとしては何の実績もなく、無名と言ってよかった。太郎丸の政治力で、悪くとも『深層キャッチ』に取り上げさせることはできるだろう。だが、目玉記事になるとは思えなかった。太郎丸の自信が理解できなかった。
26日までの2週間、どう過ごすか。深井にとってはこっちの方が厄介な気がしていた。同僚の吉須晃人のように、これまで資料室に全く寄りついていなければいい。深井は大地震のあと、出勤する時も午後1時頃、週1日か2日は出勤しないようにしているものの、2週間まるまる資料室に顔を出さないというわけにはいかない。顔を出せば、否応なく受付の開高美舞、研究員の伊苅直丈の二人と顔を合わせる。美舞は構わないが、伊苅と一緒になるのが何となく気が進まなかった。太郎丸から「伊苅が頻繁に日亜社内の内情をご注進してくる」と聞かされていたからだ。