実は同氏は、1960年代にいわゆる「模造千円札裁判」の被告人として権力の本質について重い問いかけをし、それゆえ日本の「表現の自由史」にその名前が刻み込まれているということはあまり知られていない。
●模造千円札が問いかけるものとは
事件は63年に起きた。赤瀬川氏は、当時流通していた聖徳太子が描かれた千円札の表面のみを写真製版で印刷し、これを真札と同一の寸法に裁断し、裏面に自分の個展の案内文を印刷して知人に配布したのである。その意図について同氏は、66年8月に東京地方裁判所に提出された意見陳述の中で、「私の最初の好奇心は(略)ニセ物と本物のメカニズムを見ることであり、そのメカニズムを明かすことであり、その決定的な象徴として千円札」を使用したのだと述べている。
千円札には、それがたとえ「本物」であろうと、実は「ジャガイモほどの」(赤瀬川氏)価値もない。札を食べても空腹を満たすことはできないし、それを燃やしても寒さを防ぐことはできない。しかし人々はそのような「紙切れ」の無価値を知りつつ、それに自分の餓えや寒さを取り去る力があると信じている。それどころか、この紙切れのために他人に屈従したり、時に人生をめちゃめちゃにしてしまったりする。この紙切れの持つ不思議な「力」の本質はいったいなんなのか。この紙切れに描かれている複雑な文様こそがその源泉なのか、それとも日常に身を委ねきって、疑うことを忘れた人間の「惰性」がその根源なのか。もしそうだとしたら、このような複製物を大量につくり、人々を操作している権力とは――。
このようにして模造千円札は、私たちに「本物とは何か、ニセ物とは何か」を問いかけ、さらには権力者に対して、おそらく芸術という形式によってしか示すことができない鋭い反抗を行ったのである。それゆえに、市中で「ニセ札」としては使用できそうもない紙切れの制作を、国は「通貨及証券模造取締法」違反の罪に問い、赤瀬川氏に懲役3月(執行猶予1年)の有罪判決を言い渡したのである。そして、そこでは「芸術の価値」についてはほとんど顧慮されることがなかった。
この赤瀬川氏の行為に対して、「『ニセ札』を印刷することが芸術なのか、笑わせるんじゃない」と批判する向きもあるが、筆者は今こそ「いったい何が本物なのか」という同氏の問いかけに真摯に耳を傾けるべきだと考えている。例えば今、日本は赤字国債という「ニセ札」をますます盛んに発行して、うわべだけの好景気気分をつくり出し、案の定早くも行き詰まって出口の見えない借金地獄に突入しそうになっている。