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織田直幸「テレビメディア、再考。」第4回

なぜテレビのデモ報道は“過小報道”になってしまうのか?(前編)

文=織田直幸
【この記事のキーワード】

「たとえば、安保騒動という問題が東京の一角にある。これを放送は真実を放送するといってどんどん放送する。そうすると、いかにも日本全国がその問題に巻き込まれてくる。こういう問題をわれわれは一体どう考えていくべきかということが問題ですね」

「報道というものは歴史を書く仕事であって、歴史を作る主体であってはならないのに、ややもすれば、歴史を作る主体になってしまう可能性を持っているわけです。ここに放送人全体がよく認識し、考えなきゃならん問題がある」(『民間放送』1969年1月3日号)

 前者はテレビメディアにおける「公共性」、後者は「価値中立性」についての言及だろう。

「3.11以降のテレビのデモ報道は控えめに言っても“抑制的な報道”だと思うし、ごく普通に言ってしまえば“過小報道”と思われても仕方がないと思うが、どうしてそんなことになってしまうのか?」

 私は今回、この一点だけに絞っていろんな方に話を聞いて回ったが、この時、今のテレビメディアのデモ報道姿勢を擁護するためのタームとして毎度出てくるのも、この「公共性」「価値中立性」や「公平性」「公正さ」という言葉だった。

 これにまつわる資料をもう一つご紹介する。

 テレビ局は毎年、局ごとに『報道倫理ガイドライン』というものを作成している。下記に紹介するのは某キー局から見せてもらった比較的最近の『ガイドライン』にある「デモ・暴動の取材」という項目だ。

【デモ・暴動の取材】
<現場では冷静な取材、公正な視点を最優先>
 デモや暴動の取材では、カメラ取材が行われていることによって状況をあおる可能性もあり、カメラの位置については十分配慮する必要がある。また取材スタッフの危険の回避も考慮しなければならない。デモなどでは、カメラ取材を意識したスローガンやパフォーマンスにどうしても引きずられた映像になりがちで、ニュースコメント、映像ともに公正さを欠く危険がある。(中略)公正さをどう保つか、取材の段階から考慮しなければならない。

 この短い文章の中にも「公正」という言葉が三度も出てくる。

 つまり、60年代から現代に至るまで、この言葉の重要さはおそらく変わってないということなのだ。言い換えるなら、デモや大衆運動を報道する際、「公共性」や「価値中立性」を踏まえれば、デモ報道は取材への力の入れ方からその放送時間の長さに至るまで、小さなものにならざるを得ない……というロジックだ。

 テレビメディア側のデモ報道にまつわる普遍的ロジックの一つは、間違いなくこれだと思う。これに関する私自身の評価は後述させていただくとして、次回は現代に戻って『テレビメディアのデモ報道を巡る現代固有の問題点とは何なのか?』について考えていきたい。
(文=織田直幸)

【編注】1958年、当時の岸信介内閣が、警察官による職務質問や所持品調べの職務権限を拡大して、国民の集会・デモの自由を大幅に制限する警職法改正案を国会に提出。野党はじめ、大衆からも大きな反発を招き、最終的に改正案は廃案に追い込まれた。

【本連載のアーカイブ】
フジテレビ・福原伸治氏に聞く「自己批評番組」の可能性
放送と通信の融合? 津田大介が見た、あるNHK番組の可能性
NHK堀潤アナ注目「パブリック・アクセス」というテレビ革命

織田直幸

織田直幸

株式会社ゼロ社・代表取締役。プロデューサー/編集者

2012年8月、㈱カンゼンから書き下ろし小説、テレビメディアの崩壊と再生を描いたアクション小説『メディア・ディアスポラ』が上梓された

メディア・ディアスポラ

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『メディア・ディアスポラ』 織田氏しか書けないテレビメディアのリアル amazon_associate_logo.jpg

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