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アスベスト被害者の30年の戦い、多くが鬼籍…危険認識しつつ経済優先した国と企業

写真と文=粟野仁雄/ジャーナリスト
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建設アスベスト訴訟 最高裁が「前進判決」

菅首相が直接、遺族らに謝罪

「最愛のご家族を失った悲しみについて察するに余りあり、言葉もありません。責任を痛感し(中略)皆さんに心よりお詫び申し上げます」

 5月18日午前、菅義偉首相は首相官邸を訪れた原告団代表らに深々と頭を下げた。宮島和男原告団長(91)=首都圏訴訟=は直後に参議院会館で行われた報告会で「忙しい公務にも総理は一人ひとりに謝罪してくださった」と感激の様子。埼玉県の大坂春子さんは一家で大工仕事をしていたが、夫の金雄さんと息子の誠さんを中皮腫で失った。この日「今日までは許せないという気持ちでしたが、丁寧な言葉で謝ってもらったので、夫や子供に報告できる」と感謝した。

 この日夜、田村憲久厚労相は宮島団長との間で、最大1300万円の和解金と補償基金創設などを盛った基本合意書に調印した。田村氏も原告団に丁重に謝罪し、退室の際も宮島団長に駆け寄って頭を下げていた。

 アスベスト対策は司法の場から政治の場に大きく移ったといってよい。今後も新たな提訴が控えているとはいえ、前日の最高裁の司法判断は公害関連の判断として異例の「未提訴の人たち」の救済も提示したからである。基本合意書は今年結成された与党のプロジェクトチーム(野田毅座長)が腐心したものだった。

 アスベストを含む建材を扱い、中皮腫や肺がんなどで死亡した労働者の遺族や患者らが国や建材メーカーを相手に損害賠償を求めていた神奈川、東京(埼玉県、千葉県を含む)、京都、大阪の集団訴訟について5月17日、最高裁第一小法廷で初めての統一判決があった。個別には上告した一部原告に賠償などを認めており、最高裁の見解が注目されていたなか、深山卓也裁判長は国とメーカーに厳しい判断を示した。

 判決では、アスベストに関する規則(特定化学物質等障害予防規則)を改正した1975年10月から改正労働安全衛生法が施行される直前の2004年9月までの間、国は防塵マスクを指導するなどの規制を怠ったと断罪した。また、石綿含有建材のメーカーにも「共同不法行為」として賠償を命じた。 

 さらに独立した大工などの「一人親方」や未提訴の人も救済対象とした。小野寺利孝弁護団長は「これまでは敵だった国でしたが、今後は共同して被害者を救済することになるはず。立法府も先送りせずに今国会で決める異例のスピードで進めてくれた」と評価した。

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宮島原告団長に謝罪する田村厚労相

屋外労働は救済の対象外

 しかし、原告の完全勝利ではない。屋外労働については「アスベスト粉塵が希釈される」などの理由で救済対象から外れた。大阪訴訟の原告で夫の晃三さんを肺がんで失った山本百合子さん(72)は大阪高裁判決から逆転敗訴となってしまった。

「夫は積水ハウス製の瓦(スレート瓦のこと)を切断する仕事で毎日粉を浴びて体じゅう真っ白でした。アスベストに関係がないはずがない。同じ仕事をして、どうして屋外と屋内を差別するのですか。夫の墓前にどう報告したらいいのか」(山本さん) 

 前進とはいえ、08年の初の集団提訴(東京)から13年かかった。今年で4月時点の原告は約1200人だが、すでに原告団の7割が鬼籍に入った。宮島団長は「13年は長すぎた。おぎゃあと生まれた子が中学になってしまう歳月です。その間に仲間は次々に死んでいった。5年、いや3年でも早かったら、もっと生きている人がいたのに」と悔しがった。

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屋外労働だった夫の救済が認められなかった山本百合子さん

小池元環境大臣の二枚舌

 アスベスト問題は1980年代ごろから学校の体育館などの危険性が指摘されるようになっていたが、大きな転機は2005年6月に機械メーカー「クボタ」の尼崎工場で従業員などが中皮腫などで10年間に51人も死亡、周辺住民にもおよんだアスベスト被害を毎日新聞の大島秀利記者がスクープしたときだ。アスベストの恐怖が知れ渡り、政府は翌年早々に「石綿新法」を制定した。このときの環境大臣が現東京都知事の小池百合子氏。彼女は「隙間のない救済」というキャッチコピーを盛んに使っていた。

 小池大臣はあるとき、クボタ工場の元周辺住民で当時、兵庫県伊丹市に住む土井雅子さん(後年、中皮腫で死去)に、テレビカメラを意識して駆け寄り「崖から飛び降りるつもりでやります」と約束した。その後、内容の後退に不信を抱いた「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」の古川和子代表と一緒に筆者は衆院の環境委員会を見守った。委員会終了後、古川さんが退室する小池大臣に「あなた、崖から飛び下りるって言ったじゃないですか」と迫ると、小池氏は平然と「言ってませんよ」。あの二枚舌には言葉もなかった。

早々に危険を知っていた保険会社

 日本政府はアスベストの危険を知らなかったのではない。早期に把握しながらも経済優先で、断熱性効果が高く安価で細工もしやすいアスベストについては世界一の量を輸入し続け、使用禁止どころか安全対策もとらなかった。国が危険を早くから「知っていた」ことを裏付ける事実がある。

 訴訟大国の米国では1980年頃から、大手のアスベスト製品会社が、被害者から訴訟を起こされて倒産に追い込まれるような事態になっていた。これを早くから掴んだ日本の保険会社は、各会社との集団保険の契約書で、「発症原因が石綿由来であるときは免責する」という条項を約款に“しれっと”記していた。まだ日本でアスベスト問題がクローズアップされる前である。

 この約款のことを、当時の労働省や通産省が知らないはずがなかった。泉南アスベスト訴訟に尽力してきた村松昭夫弁護士は報告会で「今回の最高裁判決は、筑豊の塵肺訴訟、さらには泉南のアスベスト、こうした公害の被害者たちの戦いの歴史の上にある」と振り返った。原告の患者らの歴史的勝利となった泉南アスベスト訴訟のスローガンは、「国は知ってた!」だった。アスベスト特有の中皮腫は潜伏期間が50年ともいわれるが、治療法が見つからない。発症者数のピークは2030年頃とされる。戦いは続く。

粟野仁雄/ジャーナリスト

粟野仁雄/ジャーナリスト

1956年生まれ。兵庫県西宮市出身。大阪大学文学部西洋史学科卒業。ミノルタカメラ(現コニカミノルタ)を経て、82年から2001年まで共同通信社記者。翌年からフリーランスとなる。社会問題を中心に週刊誌、月刊誌などに執筆。
『サハリンに残されて−領土交渉の谷間に棄てられた残留日本人』『瓦礫の中の群像−阪神大震災 故郷を駆けた記者と被災者の声』『ナホトカ号重油事故−福井県三国の人々とボランティア』『あの日、東海村でなにが起こったか』『そして、遺されたもの−哀悼 尼崎脱線事故』『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』『アスベスト禍−国家的不作為のツケ』『「この人、痴漢!」と言われたら』『検察に、殺される』など著書多数。神戸市在住。

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