本当の平和とは何か。それは無分別で「ないがまま」の状態にある。そのためには、仏教や禅、老荘の考え方に触れることだ。
東洋の叡智を共有することで、平和の在り方について考えるのが『ないがままで生きる』(玄侑宗久著、SBクリエイティブ刊)だ。本書では、「無分別」「無常」「無我」「無心」という仏教の智慧、また「無為自然」に象徴される老荘思想、そして「無限」では、秩序や必然が、いかに人間の自由に関わるのかを考察している。
著者の玄侑宗久氏は、済宗妙心寺派福聚寺住職。僧職のかたわら執筆活動を行ない、平成13年『中陰の花』で芥川賞を受賞した。
日本人の暮らしの中で宗教性を感じるものといえば、正坐やお辞儀が挙げられる。世界にはさまざまな挨拶があるが、相手に対面してあらためて頭を下げる民族は少ない。この習慣は慧眼であるという。客に向き合うには、まずそれまでの自己を寂滅させ、ニュートラルな状態に戻ってあらためて逢うべきだということだ。こうしたお辞儀文化、もしかしたら「無常」を行動化したものではないか、と、玄侑氏は考察している。
昔から天災の多かった日本人にとっては、「諸行無常」は他人事ではなかった。昨日まで元気だった家族が噴火や地震、火事で亡くなることもあっただろう。著者は、そういう中で歓喜雀躍ではなく、むしろ悲しみを振り切るためにこそ、お辞儀したのではないか。忘れようとしても忘れることのできない「面影」を「なつかし」む。しかし、面影をなつかしみつつも、人前ではあえて自ら「無常」であろうとし、寂滅現前して平常心を取り戻したのではないか、と指摘するのだ。
こうした考え方は、「こんにちは」という挨拶言葉にもあらわれていると玄侑氏。
日本人は、ただ曖昧に何の願いもなく「こんにちは」と呼びかけているわけではなく、何より「こんにちは」は、「こんにちも」ではないことが肝要だ。今日は、昨日とは全く違う日であれと、祈っているのではないか。この挨拶言葉にも、昨日までとは打って変わり、生まれ変わることが願われていると主張する。お辞儀が「無常」を行動化したものだとすれば、「こんにちは」は「無常」の言語化といえるのだ
日本人は無宗教だと思う人が多いが、決してそのようなことはない。日本人の宗教的心情は挨拶やお辞儀にまで深く浸透したため、外からは見えにくい。そうした独自の宗教心に、もっと自信を持つべきであると、玄侑氏は述べる。
「無」というキーワードのもと、書かれた本書。仏教や禅、老荘の考え方から新たに気づくことは多いはずだ。
(新刊JP編集部)
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※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。