サンミュージック社長・相澤正久×アイドル評論家・中森明夫、徹底対談【後編】

サンミュージック社長とアイドル評論家が語った、岡田有希子の“あの日”とベッキー事件

東京都新宿区左門町のサンミュージックプロダクションにて。左が同社代表の相澤正久氏。右が評論家の中森明夫氏(写真:岩澤高雄【The VOICE MANAGEMENT】)

 芸能界が転換期を迎えている。

 相次ぐ自死、大手プロダクションからの独立、YouTubeをはじめ既存メディアに頼らない表現手段の確立――。ほんの十数年前にはおよそ考えられなかった変化の数々が、この数年のうちに怒涛のように芸能界を襲っている。

 こうした変化を、長く芸能界に携わってきた賢人たちはどのように眺めているのか。この2人に、そのあたりのことについて語り合ってもらうこととした。

 ひとりは中森明夫。

 今や世界共通語となっている「おたく」の名付け親にして、アイドル評論家。1980年代には「新人類の旗手」と呼ばれ世間を賑わせ、昨秋には初の自伝的小説『青い秋』(光文社)を上梓し高い評価を得た。

『青い秋』は自伝的な内容ではありつつも、主人公の中森明夫が「中野秋夫」などといったふうに多くの登場人物の名にわずかながら変更が加えられており、あくまでも小説という体裁となっている。その主人公の目線から、「“おたく”の誕生」「新人類と呼ばれた時代」「国民的美少女」「自殺した伝説のアイドル」など、中森氏の“芸能人生”を彩ってきたいくつかのエピソードが瑞々しく描かれている。

 もうひとりは相澤正久。

 大手芸能プロ「サンミュージックプロダクション」の代表取締役社長にして、中森氏とは30年以上の親交を持つ。サンミュージックは相澤の父・相澤秀禎氏(2013年に逝去)が設立、桜田淳子、松田聖子、早見優など、数多くの伝説的女性アイドルを輩出し、現在は安達祐実やベッキーなどの一般タレントのみならず、カンニング竹山、小島よしお、メイプル超合金、ぺこぱなど独自のスタンスで活躍する人気のお笑い芸人が所属することでも知られる業界の老舗だ。

【後編】の今回は、亡くなった伝説のアイドル・岡田有希子のこと、芸能プロとタレントの間で交わされる契約のこと、そして芸能不祥事における芸能プロのリスクマネジメントなどについて話を聞いた。

【前編】はこちら

相澤正久(あいざわ・まさひさ)
1949年、神奈川県生まれ。サンミュージックプロダクション代表取締役社長。米国の大学を卒業後、旅行会社などを経て1979年、父・相澤秀禎氏によって1968年に設立された同社に入社。1995年には取締役副社長に就任し、今に連なるお笑い部門を同社内に設立。2004年からは代表取締役社長を務める。(写真:岩澤高雄【The VOICE MANAGEMENT】)
中森明夫(なかもり・あきお)
1960年、三重県生まれ。コラムニスト、評論家。成人向けマンガ雑誌「漫画ブリッコ」(白夜書房)誌上で1983年に連載したコラムにおいて、今や海外でも通用する「おたく」という言葉を史上初めて使用。1985年からは「新人類の旗手」(栗本慎一郎による造語。従来の常識が通用しない当時の若者を指した言葉)などと呼ばれメディアから引っ張りだことなった。1991年には宮沢りえ、観月ありさ、牧瀬里穂の3名を総称する「3M」なる語を発案し、流行語に。一方で1985年に『東京トンガリキッズ』(現在は角川文庫に所収)で小説家デビューし、1988年発表の『オシャレ泥棒』(マガジンハウス)は宮沢りえ主演でテレビドラマ化された。2010年に発表した『アナーキー・イン・ザ・JP』(現在は新潮文庫に所収)は第24回三島由紀夫賞の候補作となった。(写真:岩澤高雄【The VOICE MANAGEMENT】)

あまりにも頭がよすぎた、繊細だった岡田有希子の悲劇

――1986年4月8日、1983年にデビューして売り出し中だったサンミュージック所属のアイドル・岡田有希子さんが、当時四谷四丁目の交差点にあった事務所ビルから飛び降りて亡くなりました。わずか18歳でした。このことについては、中森氏の最新小説『青い秋』のなかの「四谷四丁目交差点」の章でも触れられています。あの日のことをお聞かせください。

相澤正久(以下、相澤) 事務所のコマーシャル担当として、大手町まで広告代理店との朝食会に行ってたんですよ。事務所に戻ってきたのが12時半くらい。すでにビルの周りが大騒ぎになっててビックリしちゃって。一番最初に思ったのは、どんなに怪我しててもいいからとにかく生きててくれ、ってことでした。彼女の一番最初の仕事って、僕が担当してるんですね。彼女と話をしてまず感じたのは、非常に頭のよい子だなということ。成績もほぼオール5に近かった。旺文社の模試で全国1位を取ったこともあるほどです。

――岡田有希子さんは、非常に学業優秀だったそうですね。芸能デビューを許可する条件として愛知県有数の進学校への合格を母親より課され、見事クリアしてみせたと聞きます。

中森明夫(以下、中森) 彼女に関しては、とても頭がよく繊細すぎたのかもしれないという気もしますね。

相澤 非常に繊細で、周りに対して細かい気配りもできる子でした。もうちょっと大雑把なほうがよかったのかな。頭がよすぎて自分を追い込んじゃったのかなあって思います。人間的にもすごくいい子でした……。

中森 芸能事務所というのは人を扱う仕事だから、いろんなことがありますよね。ベッキーの時の恋愛問題などもしかり。

相澤 ベッキーも、何に対しても一生懸命で人を信頼する非常に生真面目な性格の子でしたから……。

中森 でもそういう時にタレントさんをどうケアしていくのか、というところが大切ですよね。と同時に今はコンプライアンスが厳しいから、何かタレントさんに不祥事が起こった時に、その方が出演していたドラマ、映画、テレビ番組から出演部分を削除したりヘタしたらすべて撮り直したりして、とてつもなく大きな影響が出ますよね。企業CMなどの場合、タレントさんサイドが背負わなければならない違約金なども大きな額になるといいます。そのあたりのリスクマネージメントについては、どのようにお考えですか?

相澤 うちはもともとは先代が西郷輝彦を手がけたりしていて、音楽から始まっている事務所なんですよ。ですから契約というものをすごく大事にしていて、まずは契約という取り決めをして、お互い納得してから芸能活動をスタートさせる形になってるんです。だからたとえ今日来たばかりのタレントさんでも、必ず契約をします。それからタレントに対してわかっておいてほしいのは、「自分だけが傷つくわけじゃないんだよ」ということ。「何か事件を起こす前に、世間や周囲にどう迷惑をかけるのかを考えて行動しなさい」と、いつも言っています。それでもいろんなことが起きてしまうわけですが。

岡田有希子のメモリアルアルバム 『岡田有希子 Mariya’s Songbook』(ポニーキャニオンより2019年に発売)
サンミュージックプロダクションの現在の社屋にほど近い四谷三丁目の交差点。岡田有希子が自死したのは、この交差点から300メートルほど西にあった同社社屋においてのことであった。(写真:岩澤高雄【The VOICE MANAGEMENT】)

月間の稼ぎが最も大きかったのは小島よしお、ひと月でギャラ1700万円

――サンミュージックさんはお笑い部門もあり、現在ではかなりの数のタレントさんが所属されています。そのひとりひとりとすべて契約書を交わしておられるということですか。

相澤 そうですね。ただしお笑いの場合は「預かり」という形もあって、2段構えになってるんですね。まずは預かり契約、そこから本契約になるという流れ。本契約になると、ギャラのパーセンテージが上がります。

中森 サンミュージックのタレントさんって、実はすごく儲かると聞きます。

相澤 今まででひと月に一番大きな金額をもらったのは、小島よしおですよ。1カ月でギャラ1700万円かな。頑張ったら頑張った分だけきちんと払う。頑張ったらちゃんとギャラがもらえるということでいいんじゃないかなと思っています。アメリカンドリームじゃないけど、それが励みになるからね。そういう意味では、競争させるということも絶対に必要だとは思うんですよ。周りも、「じゃあおれも頑張ってやろう」ってなるじゃないですか。去年『M-1グランプリ2019』で決勝まで行ったぺこぱもそうですね。うちの会社のお笑い部署「プロジェクトGET」は、もともと私がお笑いが好きで1996年に立ち上げたものです。そこからダンディ坂野、カンニング竹山、小島よしお、髭男爵ら多くの芸人が出てきました。

中森 サンミュージックの芸人さんって世間からは「一発屋芸人」と呼ばれがちですが、実はその後もずっと事務所にいて、活躍を続けている方が多いんですよね。小島よしおさんだってそうかもしれない。

相澤 「一発屋芸人」といえばすぐに思い浮かぶダンディ坂野だって、今でもCM10本やっていますからね。うちの事務所は、「タレント再生工場」ともいわれています(笑)。

――タレントさんを育てる上でのコツはあるのでしょうか?

相澤 あまりガチガチのアドバイスはしませんね。やりたいことを尊重したほうが絶対伸びるので。伸びないマイナス面だけを削っていってあげて、その後どうすればプラスになるかを考える。その子たちの持ってる個性、ポテンシャルを伸ばすやり方です。

中森 小島よしおさんもカズレーザーさんもカンニング竹山さんも、それぞれまったく個性が違いますよね。

相澤 ゴー☆ジャスの「ゲーム」、髭男爵・ひぐち君の「ワイン」なども、好きな部分を伸ばした結果、仕事に結びついているパターンでしょうか。結局はタレントの努力なんですよ。我々がやってあげられることって結局は、仕事を取ってくるとか先達としてのアドバイスをしてやるくらい。それが次に結びつくかどうかは、そのタレント次第ですね。

中森 お父上で先代の相澤秀禎会長と以前対談した際、「アイドルにとって大切なこと」をおうかがいした時におっしゃっていたのは、「清潔感。それともうひとつは、欠点が魅力になるということ」ということでした。例えば、「松田聖子はO脚だって言われてた。だからこそミニスカートをはかせたんだ」と。普通、O脚なら足を隠したいじゃないですか。でも実際ミニスカートになった松田聖子を見てみると、「ああ、なるほどなあ」と僕も思った。つまり、欠点こそが最大の魅力であり個性だっていうことなんですよね。だって、欠点を隠しちゃったらみんな同じになるんだから。

宮沢りえのお母さんに、「“3M”ってなんだ、ほかと一緒にするな」と激怒された

――「おたく」という言葉は、中森さんによって1983年に生み出されました。今は世界中で通用する言葉になっています。

相澤 「おたく」の意味する範囲が、今やすさまじく広がりましたよね。

中森 ファッションオタクとか美容オタクとか、今はもう、なんでもオタクっていいますよね。

――ネガティブなニュアンスもほとんどなくなったように感じます。

中森 今の秋葉原に行くと、隔世の感を覚えます。昔はただの電気街だったのが、今や世界的なオタクシティー。海外の人たちもコスプレをして闊歩していたりね。例えば今、Twitterで人気アニメの公式アカウントがツイートをすると、へたしたらすべてのリプライが英語だったりするじゃないですか。本当に時代は変わったなって思います。

――「おたく」以外にも中森さんは、1991年に「3M」(宮沢りえ、観月ありさ、牧瀬里穂の3人のこと)、1996年には「チャイドル」(野村佑香、栗山千明、前田愛、前田亜季ら、当時活躍した子役アイドルの総称)など、新しい言葉を次々と生み出し、社会に定着させています。

中森 でも、その裏ではやらなかった言葉もたくさんあるんですよ(笑)。まあ、ライターは言葉を生み出すのが仕事ですからね。キャッチーな言葉を作って雑誌記事に載せると、盛り上がるじゃないですか。「3M」については当時、宮沢りえのお母さんに「ほかと一緒にするな!」ってすごい剣幕で怒られましたけどね(笑)。

相澤 クリエイターとして、その目で見たものをきちんと言葉に落とし込めるというのは、素晴らしいことだと思いますよ。

サンミュージックプロダクションの現在の社屋、そして2009年まで使用された旧社屋の最寄り駅である、東京メトロ・四谷三丁目駅近くの風景。(写真:岩澤高雄【The VOICE MANAGEMENT】)

秋元康さんのように、アイドルをプロデュースする側に回ろうとは思わなかった

――「おたく」という言葉だけでも歴史に残るのでは。

中森 それでしか残らないんじゃないかと思いますが(笑)。でも、書いてるときはこんなになるなんて思ってもみなかった。「おたく」なんて、最初は単なるコラムのひとつに書いたワードでしかなかったですからね。だから、偶然といえばただの偶然です。だけど偶然ってすごく大事で。ただぼーっとしてたらダメなんですよ。日頃から、そういった偶然が起こった時に、それをどう生かすのかということを常に考えておく。イチローだって、3回に1回しかヒットを打てない。だけど、打席に立たなければヒットは打てない。どれだけバッターボックスに立ち続け、バットを振り続けるかってことですよね。

相澤 クリエイターとしての中森さんのすごいところは、例えば電通という会社に入って仕事をしていけば、もともとその人が持っていたものを会社人として捨てなきゃいけなくなることもある。だけど中森さんは一貫してフリー、ずっと自由人的に生きておられるじゃないですか。そうすると、企業というフィルター、しがらみを通さないから、中森さんのなかから生まれるものは、常に新鮮さを保ち続けることができる。

――「アイドル評論家」をみずから名乗っている方って、実は中森さんだけしかいないでしょう。

中森 逃げ遅れただけだけどね。昔はアイドル雑誌がたくさんあったし、ライターもその分いっぱいいたんだけど。どんどんなくなっていっちゃって、みんななんとなく就職したり組織に属したりしてまともになっていってしまった。

――秋元康さんのように、アイドルをプロデュースする側に回ろうとは? お誘いはたくさんあったと思うのですが。

中森 確かに依頼はあったけど、断ってきた。やっぱり役割が違うし、それに事務所の方がどれだけ大変な思いをして大変なことをやっておられるかというのは、ウラ側も含め間近で見てますからね。そこは一線を引いておきたい、というところでしょうか。僕は、おのれの“分際”をわきまえていますよ。

相澤 いや、しかし『青い秋』には感銘を受けました。中森さんはもっといろいろとお書きになって、賞を狙うべきですよ。本当に繊細な文章をお書きになる。作家として評価されるのも時間の問題だなと感じています。
(構成:岡島紳士)

【前編】はこちら

中森明夫氏が2019年10月に上梓した自伝的小説『青い秋』(光文社)。中森氏が自身の“芸能人生”を彩ってきたいくつかのエピソードを瑞々しく描いた私小説ふうの内容となっている。

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