仏教は傍目には「死」を目指して修行するものに見えると言われる。ならば、その修行は「死ぬ練習」とも言えるだろう。
「死」は誰もが迎えることではあるが、生きている間は、それが何かはわからない。何であるかわからないまま直面しなければいけない死に向かっている私たちに、仏教の「死ぬ練習」は何かを教えてくれるのではないだろうか。
■生の苦しみ・不安から解放される仏教の「方下」という考え方
『死ぬ練習』(南直哉著、宝島社刊)では、青森県恐山菩提寺院代住職代理、福井県霊泉寺住職の南直哉氏が、仏教の観点から不安と恐れが消え、心がラクになる方法を紹介する。 南氏は、大学卒業後、大手百貨店勤務を経て曹洞宗で1984年出家得度。永平寺で約20年の修行後、2004年恐山へ。
「諸行無常」というのは、仏教の最も基本の考え方だ。ただ、これは「桜が散って儚いなあ」と一人ごちるようなナイーブなセンチメンタリズムを意味しているのではない。「儚いなあ」などと嘆息している自分自身が儚いと教示する倫理である。仏教の言う「無常」の思想は「常に・変わらない・そのもの自体で存在するもの」を否定することだ。
古代インドの思想では、「常に・変わらない・そのもの自体で存在するもの」を「アートマン」と言い、漢訳では「我」となる。仏教はこの「我」を否定しているのだ。「我」の概念は、あると断言しない限り無意味で、ないも同然であるというのが、「無常」「無我」となる。
この仏教の「無常」「無我」の教えに関わるのが、苦痛を除去しても切りがないから大元の苦しむ「自己」を消去すればいい、放り投げてしまえばいいという「方下」だ。これは「自分を大切にしない」という考え方でもある。
方下とは、自分ではなく、他者を先に立てて生きていくこと。他者を先に立てて生きるとは、自分と他社に共通する問題に取り組んでいくことで、このとき大事なことが3つあるという。
第一に、損得を離れること、それを行って得をしようと思わない。
第二に、それで人から褒められようと思わない。
第三に、それによって友達を作ろうと思わない。
「損得」「褒められること」「友達作り」は、その根底に「思い通りにしたい」という所有の欲望が作動している。なので、これらへの強い執着は、自分自身が存在することに根拠があり、それ自体で存在しているという錯覚を強くすることになる。
「自分を大切にしない」ことである「放下」とは、この錯覚を解毒することであり、これが仏教の「無我」「無常」の教えに通じるのだという。
また、他者の「わからなさ」を受け入れ、さらに関わろうとする行為が仏教の根本理念の一つである「慈悲」の行為でもある。「わからない」死を目指して生きることこそが仏教であり、それは「死を受容するためのテクニック」でもある。その方法の一つが「放下」であるという。
自己の消去といっても、もちろん簡単にできることではないが、仏教の思想と哲学に本書を通じて触れることで、生の間につきまとう死への不安にどう対処すべきかが、おぼろげにでも見えてくるかもしれない。それはきっと自分の生にとって得難い経験だろう。
(T・N/新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。