現代は激変の途上と言える時代だ。
たとえば、インターネットの登場は多くの人の人間関係のベースを変えた。人生の中でコンピュータやネットが途中から出現した世代と、生まれたときからそれらに触れてきた人間では、当然のように人間関係の構築や価値観が異なることは、多くの人が実感しているはずだ。
激変の渦の中にある時代を渡っていくためには、社会や人間というものを、一度、大きな枠組みでとらえ直さなければ、自分の生き方も見失ってしまうだろう。
そんな現代の人間や社会の本質を根本的に見直すヒントを与えてくれる一冊が『今を生きるための「哲学的思考」』(黒崎政男著、日本実業出版社刊)だ。
「哲学」と聞いて連想することは、「難しい」「実生活には役に立たない」といったところではないだろうか。
しかし、哲学とは当然のことや常識を疑って、「そもそも、それってどういうこと?」を考えることだ。その哲学的な思考で現代を見れば、今、何が起こっていて、どこに向かおうとしているのかがつかめるはずだ。
本書では、そんな「哲学的思考」で、肥大化するデジタルネットワークや発展著しいテクノロジーについて深く考察している。
■デジタル時代と「パノプティコン」
ジェレミ・ベンサムという18世紀のイギリスの哲学者がいる。彼は「パノプティコン」という罪人を一望監視できる理想的な監獄を構想した。360度を見渡せる中央塔があり、その周りに独房を監視するというものだ。
塔にいる人間は独房から見えない仕組みになっているので、実際にそこに人がいなくても罪人は「監視されているかもしれない」と意識するので、規律正しくなるというわけだ。 20世紀のフランスの哲学者、ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』でこのベンサムの構想を、社会のシステムとして管理、統制された環境になぞらえている。
この一連の思想や考察は、そのまま現在のデジタルネットワーク時代で実現化している。SNSの炎上などは、不特定多数の人間の監視によるものだ。また、Amazonなどの通販サイトに出現する「あなたへのオススメ」は、企業側のシステムに監視、蓄積した結果、表示される。
こうしたパノプティコン的な社会は何をもたらすのだろうか? 著者は、そのひとつに「非対称性の崩壊」があると述べる。少々難しい言い方なので、例を挙げて紹介しよう。
■現代の先には「えらい人」がいなくなる?
昔だったら、「えらい人(権威や権力の上層)」に何かを伝えようと思っても届かなかった。
しかし、今は、ツイッターなどのSNSで、権力や権威のない個人でも容易に「えらい人」に意思を伝えることができる。
場合によっては、大企業の経営者や幹部、政治家などの圧倒的な権力を持つ人たちよりも、一般市民のひとつの当初や意見のほうが強いということがありうる。つまり、少数の人物が多数の人たち(=非対称)が影響を与えたり啓蒙していったりするという構造が崩れたと言えるのだ。
著者の実感では、20年ほど前からテレビが「えらい人」をおちょくり始めたという。それまでは学者先生のほうがアナウンサーやキャスターよりも上の立場だったのが、今では「それおかしいですよ」と学者に反論や意見が出るようになり、時にはバカにするような論調になることすらある。
こうしたことから社会から上下関係という価値観が廃れつつある。上下関係自体が善か悪かはまた別問題だが、その果てには、人々から尊敬や畏怖という感覚が失われていくかもしれない。
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中には、「ネットに何かを書き込むことはないし、そもそも見ない」という人もいるかもしれない。
しかし、別の第三者が自分のことを書き込むかもしれないし、もしくは、書かない見ないということで、「存在しない人」「影が薄い人」ということになってしまう可能性もある。高度にネットワークが発達した現代においては、誰しもが、「取り込まれるか」「存在しなくなるか」の選択を迫られ、ネット上の自分を否が応でも意識せざるを得ない。
本書では、さらに考察を進め、「私(個人や個)」とはどういうものか、これからの時代における「私」の価値はどのように扱われ、捉えられていくかが語られている。 価値観や社会全体を動かすベーシックな思想は、当たり前にあり過ぎるので深くは考えないものだ。それらを「哲学的思考」で切り取ってみると、未来に対する不安を払拭できるかもしれない。(ライター/大村佑介)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。