小室哲哉が東京ドーム“ガラガラ公演”を回避した仰天理由…平成の大爆死イベントを総括
平成は、失敗に対し厳しい時代だった。特にインターネット上では、失敗は何よりの話題のタネであった。かつてはBBSで、その後はSNSで、何か失敗をした人は徹底的に責められ続けた。また、エンターテインメントの世界でビジネス的に大失敗したコンテンツ、大きくコケた企画は、笑われ、けなされ、バカにされた。
現在、メディアには平成をプレイバックする企画が溢れているが、失敗に厳しくなった時代の最後に、ここでは、各ジャンルの「大失敗案件」を、数回に分けてクローズアップしてみたい。今回は第3回、イベント編である。
イベントについては、もともとの規模に大小の差が限りなくあるので、失敗の度合いの数値化、ランク付けがしづらい。そこで、各ジャンルで語り草になっているものをいくつか挙げてみよう。
【第1回「映画編」はこちら】
【第2回「テレビドラマ編」はこちら】
格闘技ブームに水を指したドタバタ、ズンドコ興行
20世紀初頭の格闘技ブームを牽引していたのが、立ち技格闘技主体のK-1と、総合格闘技のPRIDEという2つのブランドである。この両者はもともと提携関係にあったが、その関係は長くは続かず2003年には決裂。それまで協力のもとに開催していた大晦日の興行を別々に行うことになった。K-1陣営はナゴヤドームで、曙vsボブ・サップをメインとした「K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!」を、PRIDE陣営は、桜庭和志ら日本人選手を柱としたさいたまスーパーアリーナでの「PRIDE SPECIAL 男祭り 2003」を開催。前者をTBSが、後者をフジテレビが中継した。
しかし実はもうひとつ、大晦日の格闘技中継に興味を示したテレビ局があった。日本テレビである。同局は、「ケイ・コンフィデンス」という会社と手を組み、神戸ウイングスタジアムにてアントニオ猪木をアイコンとする『INOKI BOM-BA-YE 2003 馬鹿になれ夢を持て』という興行を主催する。
つまり2003年の大晦日の夜は、地上波民放3局が格闘技を中継したのである。そうなると当然、3番組の視聴率が比較される。結果、数字的に上から3番目だったのが、『INOKI BOM-BA-YE~』だった。
その舞台裏はドタバタだったようで、発表された目玉選手の出場は続々キャンセルに。それでも、かなり強引なかたちでエメリヤーエンコ・ヒョードルらトップ選手の頭数を揃えることには成功している。ところが、TBSが瞬間視聴率43.0%と史上初めてNHK『紅白歌合戦』の視聴率を上回ったのに対し、こちらは平均5.1%と低迷。観客動員も大苦戦し、タダ券が大量にバラまかれ、それでも客席は埋まらなかった。
また、会場の舞台装置も、3つのうちもっともショボかった。日テレは、「ケイ・コンフィデンス」と3年契約を結んだとされるが、以後、大晦日に格闘技を中継することはなかった。
なお、このイベントは運営そのものが終始ボロボロだったことでも一部に知られている。たとえば、スタッフが誰もゴングを用意しておらず、当日になって、イベントとは無関係な大阪在住の格闘家が所有していたものを持ってきてもらった……という逸話もある。
ウッドストックを目指したフェスが、町内の盆踊り大会に?
平成は野外音楽フェスがひとつのジャンルとして成熟した時代であった。その御三家ともいえるのが、「フジロック・フェスティバル」「ロック・イン・ジャパン・フェスティバル」「サマーソニック」であろう。そして2006年に、これらに匹敵する大規模フェスとして、海外アーティストの招聘、公演などを行うウドー音楽事務所が仕掛けたのが、「ウドー・ミュージック・フェスティバル」である。
そのコンセプトは、「大人の夏フェス」。運営会社の強みを生かして、海外からメジャーなアーティストを多数招き、「この夏、ウッドストックの興奮が甦る!」なるコピーを掲げたのだった。
開催日は、2006年の7月22~23日。静岡県の富士スピードウェイと、大阪府の泉大津フェニックスで同時開催された。“ウッドストック”はいささか過剰だったかもしれないが、確かに出演者の顔ぶれは凄かった。サンタナ、ジェフ・ベック、ドゥービー・ブラザーズ、プリテンダーズ、ベン・フォールズ、キッス、ポール・ロジャース、スティーヴ・ヴァイ……。ドーム級の豪華さであり、大人の音楽ファンを興奮させる要素に満ちていた。だが、なぜかチケットがさっぱり売れなかった。
当日の会場はいずれもガラガラ。ネット上には、そのあまりにも牧歌的な雰囲気が伝わる写真が多数アップされ、地方の村祭りか、町内の盆踊り大会かと面白がられたのである。
ドタキャン騒動でファンもドン引き? 閑古鳥が鳴いたドーム公演
もうひとつ、客席がガラガラだったことで知られているのが、t.A.T.u.の東京ドーム公演だ。
t.A.T.uは、1998年にロシアで結成されたグループ。2000年代になると世界各国でブレイクし、日本でも2003年にアルバムがオリコンアルバムチャート3週連続1位となる大ヒットを記録した。
このユニットは、過激な話題作りを戦略的に繰り返した。そのひとつに、各地の公演ドタキャンがある。これは沢田研二とは事情が違い、今でいう炎上商法的な狙いがあったと思われる。日本でも、2003年6月に『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)に出演するも、パフォーマンスを見せることなく、番組の途中で姿を消すという騒動を起こしている。
こうしたエスカレート気味の話題作りに、日本のファンも白けたのだろうか。同年末、東京ドームで2デイズ公演を行うが、これが盛大な空席祭りだったのだ。ネットオークションサイトでは、チケットが1枚数百円で投げ売りされる始末だった。
東京ドームで映画上映も有料客が1000人入らず!?
ガラガラドーム興行に関しては、映画『8マン・すべての寂しい夜のために』(1992年)についても触れなければならない。これを映画編ではなく、イベント編で取り上げるのにはわけがある。
この映画を製作したのは、マンガ『8マン』の「完全復刻版」をリリースしヒットさせた「リム出版」という出版社である。宍戸開の初主演作で、宍戸錠も博士役で出演しており、父子共演というのが話題のひとつだった。
ただし、なぜか一般の映画館での公開はなく、東京ドームで1度きり、イベント的に上映するという形がとられたのである。当日は、映画の上映以外に音楽ライブやトークショーなども開催された。
ところがその日、ドームはガラガラだった。何万人も入る会場に、有料入場者は1000人にも満たなかったともいわれている。文字通り、“寂しい夜”。作品の出来も散々で、ドームのステージに上がった宍戸錠が自ら「この映画、ショボいです」と発言したというから笑えない。
その後、リム出版は倒産。『8マン~』はビデオ化されることで、全国の好事家の目に触れることになるが、内容がポジティブに評価されることはなかった。
あのグループがドーム公演を中止させたトンデモ公式理由
最後に、ガラガラドーム公演を直前に回避した(と、思われる)例についても言及しておこう。
1995年にデビューしたglobeは翌年に絶頂期を迎え、ファーストアルバム『globe』は400万枚を超えるセールスを記録した。しかしそれから 数年の時が流れ、やがて小室哲哉ブームが終息すると、globe人気も低迷していく。そこで2000年代に入ると、X-JAPANのYOSHIKIの加入、アジア諸外国への進出などの新展開を模索するようになる。
東京ドーム公演が予定されていたのは、そんな動きが目立っていた2003年のこと。大々的にプロモーションがなされたが、突然、あまりに不可解な理由で開催中止が発表された。理由とされたのは、“イラク戦争と新型インフルエンザ(SARS)”。この2つの禍により、アジア展開のコンセプトの見直しが必要になったと共に、日本以外のアジア各国のファンが東京ドームに来ることが難しくなったから──。そういう説明がなされた。
この発表に対しファンが「なるほど、それなら仕方ない」と納得すると考えた運営スタッフは、まずいないのではないか。ただ、実際にライブを決行して大惨事となるよりは、「なんじゃそりゃ!」というツッコミの集中砲火を浴びるほうがまだマシだと考えたのだろう──。周囲からそう思われても仕方がない、そんな中止劇だった。
その後YOSHIKIは、CD制作などの目立った活動をすることもなく、globeからフェイドアウトした。