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生稲晃子の“アイドル人生”を考える【後編】

工藤静香にはなれなかった生稲晃子のしたたかな“おニャン子クラブ処世術”とタレント人生

文=峯岸あゆみ
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おニャン子クラブ会員番号40番・生稲晃子もいまや立派な国会議員。元おニャン子とか元SPEEDとか元モー娘。とか、参院選では知名度の高い“タレント候補”がとかく話題となりがちだ。(画像は生稲晃子公式ブログより)

【前編】で触れたように、高校2年生の終わり(1986年3月)に、ローソンが主催した「Soda Foutainミス南コンテスト」という『タッチ』(作:あだち充)のヒロインである浅倉南のイメージガールを決めるオーディションの決戦大会に残った生稲晃子は、関係者から優勝の内示を受ける。ところが、実際に優勝したのはまったく別の人物だった。彼女は、それ以前に「ホリプロタレントスカウトキャラバン」への応募が縁でホリプロの系列事務所であるホリ・エージェンシーに所属の経歴があり、それがネックになったのだという。

 高校3年を目前に大きなチャンスを逃した生稲だが、そこに「おニャン子クラブのオーディションを受けてみないか」というレコード会社関係者からの誘いを受ける。これは実質、合格を前提としたオファーだった可能性が高い……。

おニャン子クラブは必ずしもシロウト集団ではなかった

 ソロアイドル全盛の時代に、新陳代謝のある多人数グループアイドルという分野を開拓したおニャン子クラブのオーディションは、建前上はすべて一般公募ということになっていた。しかし実際には、レコード会社や芸能プロから送り込まれる応募者が紛れていた。たとえば下記の面々である。

▶会員番号8番:国生さゆり
▶会員番号12番:河合その子
▶会員番号17番:城之内早苗
▶会員番号29番:渡辺美奈代
▶会員番号36番:渡辺満里奈
▶会員番号38番:工藤静香

 国生【註】、河合、城之内、渡辺満里奈はソニー系のオーディションで関係者にキープされていた人材。地元の愛知で芸能スクールに通っていた渡辺美奈代も、スカウトされソニーを経由しておニャン子のオーディションを受けている。工藤に至っては、1985年1月にCBSソニーから「セブンティーンクラブ」という3人組アイドルグループとして歌手デビューした経歴があった。フジサンケイグループ系列のキャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)とともに、CBSソニー&エピックソニー(現:ソニー・ミュージックレコーズ)はおニャン子クラブと緊密な関係にあったのだ。

【註】国生は、別名義のオーディションの合格者として、おニャン子のオリジナルメンバーに選出されている。

 上記の5名は、他の候補者と同様に、『夕やけニャンニャン』内の公開オーディションの過程は踏んでいるが、実質は“推薦入学”のような形でのおニャン子入りだったと考えられる。ただし、過去にアイドルとしてCBSソニーからソロデビューした実績のある人物が、おニャン子のオーディションでは落ちた例もある。また、工藤はのちにソニーではなく、キャニオンからデビューしているので、彼女のおニャン子入りにソニーがかかわっていたか否かは定かではない。

当初は乗り気ではなかった生稲晃子だが、全盛期のおニャン子クラブへ“滑り込みセーフ”

 話を戻そう。

 おニャン子のオーディションを受けるよう勧められた生稲は、『夕やけニャンニャン』を観ておらず、おニャン子に対する思い入れもなかったというが、結局はこの話に乗った。やはりそれが、アイドルになるための近道だと考えたのであろう。

 公開オーディションで合格した生稲のおニャン子入りは1986年の6月で、会員番号は40番。“おニャン子全盛期”といえる時期に滑り込むタイミングだった。この頃は、おニャン子関連シングルが必ずオリコンで初登場1位になっていた時期で、生稲は夏のスタジアム公演やアメリカ遠征(写真集やイメージビデオの撮影)など、ビッグイベントに参加。同年公開の映画『おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!』には、もっとも新しいメンバーとして出演している。

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うしろ髪ひかれ隊は「ふんにゃり静香と、ほんわか晃子と、しっかり満喜子で、うしろ髪ひかれ隊になったとさ」のキャッチコピーで売り出した、うしろゆびさされ組の後継グループだった。(画像は2007年にポニーキャニオンから発売された『うしろゆびさされ組+うしろ髪ひかれ隊 SINGLESコンプリート』のCDジャケットより)

残酷だった「ミス南」との格差

 生稲がおニャン子に加入する少し前に、「Soda Fountainミス南コンテスト」の優勝者は、ソロのアイドルとして華々しく売り出されていた。あだち充の命名とされる「浅倉亜季」という芸名にて、アニメ『タッチ』の挿入歌でローソン「ソーダ・ファウンテン」 CMソング「南の風・夏少女」で歌手デビュー(5月21日)。もちろん、CMには浅倉南と同じ髪型の彼女が出演していた。かなり恵まれたデビューではあったが、残念ながら浅倉亜季は爆発的な人気を得ることなく、数年で芸能界を去っている。

 これに対し生稲は、おニャン子メンバーとしてメディアへの大量露出を果たし、グループのなかでも3本の指に入る……というほどではなかったものの、短期間で人気メンバーのひとりに成長。

 1986年10月リリースの渡辺満里奈のデビュー曲「深呼吸して」では工藤静香とともにバックコーラスを任せられ、さらに同年11月リリースのおニャン子クラブ6枚目のシングル「恋はくえすちょん」では、ついにフロントボーカルのひとりに選ばれた。少なくとも、運営側に推されているのは確かだった。

ローソンのCMに単独出演し、事務所に属さずフリーゆえにギャラを“総取り”!

 そして1986年12月には、おそらく前述の浅倉亜季も穏やかではいられないような衝撃的な出来事が起こる。ローソンが冠の「Soda Fountainミス南コンテスト」に落ちた生稲が、そのローソンの「からあげクン」のCMに単独で出演したのである。しかも、CM曲として、彼女のソロ曲(おニャン子のアルバム曲をひとりで歌唱)が流れていた。

 なお、2010年に『くだまき八兵衛』(テレビ東京系)という番組に、新田恵利(会員番号4番)と生稲が出演した際、“当時の生稲は事務所に所属しておらず、CM出演ギャラをまるごと得ることができた”といった旨の話をしている。だとすると、ホリ・エージェンシーとの契約はいつの間にか切れていたことになる。

 一方、浅倉亜季は翌年1月にはフジテレビ系の単発実写ドラマ『ナイン』(原作はあだち充)でヒロインを演じ、さらに6月には同じく『タッチ』でついに浅倉南を演じたものの、飛躍のきっかけとすることはできなかった。

おニャン子ブームは停滞するも、工藤静香らとともに「うしろ髪ひかれ隊」結成

 おニャン子の“終わりの始まり”は、1986年の夏である。

 9月にオリジナルメンバーである新田恵利、福永恵規(会員番号11番)らが卒業することもあり、世代交代を狙ってか、「おニャン子B組」と称する中学生メンバー5名を含む大量の新メンバーを加入させるのだ。しかし、風を変えるような強力な人材はそこには現れず、世代交代成功とはならなかった。当時の中心メンバーである渡辺美奈代、渡辺満里奈の人気は絶大だったが、グループ全体のブームは徐々に退潮していくのだった。

 本人の証言によれば、「からあげクン」CMへの出演を果たした生稲にはソロデビューの話が浮上していたが、自分から断ったという。彼女はアイドルになるために積極的な行動をとってきたが、進学して将来は教師になるという現実的なビジョンがあったようなのだ。

 このダブルスタンダードはしかし、破綻する。

 受験勉強に取り組んだ結果、短大進学が決まるが、同じ時期に周囲の大人たちは彼女を工藤静香、斉藤満喜子(会員番号42番)の3名で「うしろ髪ひかれ隊」というグループでデビューさせることを決定。所属事務所はプロダクション尾木に決まる。

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うしろ髪ひかれ隊からソロデビューを果たした生稲晃子・工藤静香・斉藤満喜子たち。その後の工藤静香はご存知の通り、ヒット曲を連発し女優としても活躍するなど、トップアイドルの座を不動のものとした。(画像は2015年にポニーキャニオンから発売された『おニャン子クラブ シングルレコード復刻ニャンニャン7』のCDジャケットより)

おニャン子解散、工藤静香のソロデビューでもろくも崩れた「うしろ髪ひかれ隊」

 1987年5月リリースのうしろ髪ひかれ隊のデビューシングル「時の河を越えて」は、アニメ『ハイスクール!奇面組』(フジテレビ系)とのタイアップもあり、オリコン1位のヒットとなった。

 しかしその翌月、大事件が発生する。

『夕やけニャンニャン』の終了とおニャン子クラブの解散が発表されるのだ。母艦を失うことはデビュー組には大きなダメージだった。なぜなら、おニャン子からソロ、もしくはグループでデビューしたメンバーは、卒業生であっても新曲を出す度に連日『夕やけニャンニャン』でその曲を歌う機会が与えられ、集中的なプロモーションができたからである。

 うしろ髪ひかれ隊はおニャン子解散後も活動継続とはなったが、ここにきてもうひとつ、活動を不安定化させる事態が起こる。2ndシングル「あなたを知りたい」のリリースから約2週間後の1987年8月31日、『夕やけニャンニャン』の最終回放送日と同日に、もっとも人気が高かった工藤静香が「禁断のテレパシー」でソロデビュー。ソロ活動とグループ活動を並行するというスタイルがとられたが、当然、工藤が売れることで、グループ活動は自然と疎かにされていくのだ。

生稲のデビュー曲が広島球場に鳴り響く

 1987年9月20日の代々木第一体育館でのコンサートを最後におニャン子クラブは解散し、工藤、生稲、斉藤を含む在籍メンバーは全員卒業扱いに。以後、人気がそれまで以上に高まった工藤が多忙になったこともあり、徐々に先細りしていったうしろ髪ひかれ隊の活動は、1988年4月を最後に確認できなくなる。また、同時期に生稲、斉藤のソロデビューが発表された。

「ホリプロタレントスカウトキャラバン」から4年。短大2年の1988年に生稲は、こうしてついにソロのアイドルとしてデビューを果たすのである。

 うしろ髪ひかれ隊では工藤に続く人気だった生稲のソロデビュー曲「麦わらでダンス」はオリコンの週間チャートでトップ10入り(最高位8位)。なおこの曲は、広島東洋カープの応援団が、“ダンス”とひっかけて“ランス”という外国人選手の応援曲として採用。そのことからその後、高校野球の応援時にも演奏されることがあったため、ヒットの規模以上に人々の記憶に残ることになる。

 しかし、ソロ歌手としての生稲のピークはデビュー時であり、シングルを出すごとにチャートの順位は下がり、3枚目からはトップ10圏外に。ビッグヒットを連発する工藤静香との差は確実に開いていった。それでも1990年までは継続的なシングルのリリースを続けるが、そこから人気が再浮上することはなく、彼女のアイドル活動は実質終了となった。

地味ながらテレビに出続けることにより、有権者からの知名度は絶大?

 その後の生稲の芸能活動は、歌手として多数のヒット曲を生んだ工藤静香や、ゴールデンタイムのバラエティ番組のMCとしてひっぱりだこだった渡辺満里奈のように華々しいものではなかった。しかし彼女は、断続的ながら長期間にわたりテレビに出演し続けていた。

 1996年より1998年まで『暴れん坊将軍』シリーズ(テレビ朝日系)にレギュラー出演。1999年より2002年まで昼ドラマ『キッズ・ウォー』(TBS系)シリーズに主演。さらに2007年4月から2015年9月までの約8年半、午前中の帯番組である『ちい散歩』『若大将のゆうゆう散歩』(ともにテレビ朝日系)にレギュラー出演し、平日はほぼ毎日テレビに顔をさらしていた。これらのキャリアは、おニャン子ファンよりも上の年代にも、時間をかけてじっくりと確実に名前と顔を売る機会となったことは間違いない。これは、今回の参議院選挙の際にも大きなプラスになっただろう。

 自分が主役になろうとはしない。最前列のど真ん中に立っていないと気がすまないというタイプでもない。しかし、常にちゃっかりと目立つところにはいて、ほどほどにおいしい思いもしている。それが、生稲晃子のタレント活動であったといえるのではないか。

 そういえば先の参院選において彼女は、東京選挙区の得票数は全体の5位。自民党公認では、元バレーボール・ビーチボール選手の朝日健太郎につぐ2番めの得票数での当選であった。

峯岸あゆみ/ライター

峯岸あゆみ/ライター

CSと配信とYouTubeで過去のテレビドラマや映画やアイドルを観まくるライター。ベストドラマは『白線流し』(フジテレビ系)、ベスト映画は『ロックよ、静かに流れよ』(1988年、監督:長崎俊一)、ベストアイドルは2001年の松浦亜弥。

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