なぜ新日鐵は中国に入れ込んだのか? それは同社をはじめとする高炉各社が、中国の製鉄所建設に積極的に協力したのは国内が鉄鋼不況だったからだろう。近視眼的な利害得失で中国の製鉄業を支援した結果、その中国の鉄鋼業が日本の競争相手となり、そしてとうとう日本を圧倒する存在となった。11年の鉄鋼の世界ランキングで中国企業が上位を独占し、日本の新日鐵は5位にも入れなかった。
ちなみに11年の鉄鋼企業による粗鋼生産量の世界ランキングは、
【順位 メーカー名 国名 粗鋼生産量(万トン)】
1 アルセロール・ミッタル ルクセンブルグ 9720
2 河北鋼鉄集団 中国 4440
3 宝鋼集団 中国 4330
4 ポスコ 韓国 3910
5 武漢鋼鉄集団 中国 3770
6 新日本製鐵 日 3340
…
9 JFEスチール 日本 2980
…
27 住友金属工業 日本 1270
となっている。
それでは、歴代“戦犯”社長を、その偉業とともに紹介していこう。
■稲山嘉寛 (第5代経団連会長)
「中国から石油と石炭を日本へ輸出し、日本から設備、資材を中国へ輸出する」という長期協定構想は、72年の日中国交正常化後、周恩来総理、稲山嘉寛経団連副会長、(財)日中経済協会会長を初めとする関係者の間で打診・検討が重ねられてきた。77年にこれが実現に向かい、同年10月には日中長期貿易取決め推進委員会が設立され、中国側においても中日長期貿易協議委員会がつくられた。
78年 1月31日に日中長期貿易取決め推進委員会の総会が開催され、取決めの文案が承認されると共に、推進委員会を改組し、日中長期貿易協議委員会が発足した(委員長は稲山嘉寛)。本委員会の代表団が同年 2月訪中し、16日に稲山委員長と劉希文・中日長期貿易協議委員会主任との間で日中長期貿易取決めが調印された。
新日本製鐵の中国・宝鋼集団に対する技術協力は、77年11月、新日鐵の稲山会長が日中長期貿易委員会の代表として訪中した際に、李先念副主席から大型一貫製鉄所建設の協力要請を受けたことからスタートした。78年10月にトウショウヘイ副総理が来日し、君津製鉄所を視察したことが、計画推進の大きな後押しとなり同年12月に第一期工事に着工した。