上海宝山製鉄所は、中国最大の工業都市であり消費地でもある上海に初の臨海製鉄所として立ち上げることとなった。新日鐵の君津、大分、八幡製鉄所をモデルに最新鋭の設備が導入され、中国で初の近代的な工場管理システムが移植された。
一期工事(第1高炉、転炉3基、分塊工場)は中国側の資金が途切れても、日本側のファイナンスの供与によって継続された。第二期工事(第2高炉、コークス工場)などの契約はキャンセルされた。およそ8年の歳月(正確には7年10ヵ月)をかけて、85年9月に第1高炉の火入れが行われた。
第二期工事は、中国側が国産設備で対応可能なものは国内で生産する方針をとり、新日鐵は合作設計製造という形で協力した(つまり、タダか、タダに近い対価で技術を出してやったわけだ)。宝鋼は00年6月までに第三期工事を完了。04年7月に合弁会社宝鋼新日鐵自動車鋼板有限公司(BNA)が設立された。
上海宝山製鉄所の建設は中国の「改革・開放」政策後の中核プロジェクトであり、78年2月に日中間で調印された「日中長期貿易取り決め」の第1号プロジェクトでもあった。既に書いたように、「日中長期貿易取り決め」の日本側の調印者は稲山嘉寛だった。稲山は中国の建国以来最大の重工業建設プロジェクトを、日中合体で推進した中心人物ということになる。
第一期工事は日本側に任せて、最新技術を吸収する。二期目から自前の技術(国産技術)と称して、ここでも合作設計製造というかたちで、日本の先端技術の供与をほぼ無償で受け(この無償の意味は、ODAなどによって中国側は一銭も金を払わなかったということを指す)、プロジェクトを仕上げる。
東日本旅客鉄道(JR東日本)は新幹線の技術を中国側に供与したが、中国側はこれを国産技術と僭称し、米国にまで売り込みをかけるようになった。この驚くべき事実についてはシリーズ第3回で述べる。
こうした最新技術を盗むシステムの最初の協力者が稲山嘉寛ということになる。
■斎藤英四郎 (第6代経団連会長)
78年、田中内閣で外相を務めた大平正芳が首相になると、「より豊かな中国の出現が、よりよき世界につながる」と表明し、膨大な額の対中ODAが開始された。これこそ、日本の命取りになるものだった。これは、賠償的色合いを帯びたODAで、7兆円もの額を以後30年にわたり供与することになった。これは当時の中国のGDPに匹敵する額。これを共産党が支配する中国に流し込んだ。ODAが中国を今日の怪物(モンスター)に仕立て上げた栄養源となった。
中国にはODA以外にも巨額のジャパン・マネーが流入した。日本の経済界は、国交正常化とODAの開始をビジネスチャンスととらえ、中国へ次々と進出した。特に、新日鐵は最新鋭の製鉄設備を次々と中国へ進出させ、世界から「なぜ最新設備を中国へ差し出すのか」と訝しがられた。当時、日本企業の中国進出の先頭に立っていたのが、新日鐵の第4代社長の斎藤英四郎である。彼は山崎豊子の小説「大地の子」のモデルとなった上海宝山鋼鉄誕生を新日鐵が支援した際の社長であり、中国進出は「戦中の罪滅ぼし」と考えていた。
「大地の子」はNHK放送70周年記念番組として、日中の共同制作によりドラマ化されたが、当時からアメリカの情報筋は中国の対日工作の一環と断言していた。