イオン「店舗を襲撃されてもニコニコ」中国経済に貢献した企業の今
「資生堂HP」より
■資生堂の福原義春・元社長&会長
そもそも資生堂の社名は、中国古典『易経』の一節「万物資生」に由来する。2011年5月に中国進出30周年を迎えた。中国における売り上げ高は、同社連結売上の10%強を占め、販売店舗数は5000店を超える。中国事業の開拓者である福原義春名誉会長(元社長&会長)は、文化大革命の余波が冷めやらぬ80 年に北京に降り立ち、翌年から事業に着手した。
02年には日本の民間人として、初の北京市栄誉市民の称号を授与されている。同賞は北京市に貢献した外国人に与えられる最高位の称号である。
福原は「中国には古典から社名をいただいたこともあり、昔から格別な思いを持っていた。最初に中国を訪れた80年、私は外国部長だった。資生堂綜合美容研究所の社員が『北京市第一軽工業局が、資生堂に関心を示している』と教えてくれた。中国への投資はすぐには難しいので、まずは視察という口実を設けて、アジア課長を連れて2人で北京へと向かった。
中国は重工業に注力していたため、軽工業局への予算配分は極めて少なかった。軽工業局は会議室もなく、四川飯店の客室を間借りするような形で会議を開催した。ホテルの確保もできないということで、宿泊先として用意されたのがユースホステルだった。部屋には鍵もなく、従業員はノックもせずに魔法瓶の交換や掃除などで入ってくるので、落ち着いて着替えもできない。これが私たちの中国進出の始まりだった」と、福原は述懐している。
当時の北京は人民服を着た人が闊歩しているような時代で、デパートの化粧品売り場ですらビニール袋詰めのクリームを量り売りしているような状態だった。「日本は1000 年以上前から中国の文化を取り入れて発展してきた。今こそ恩返しをしたい」という気持ちが芽生え、手探りながら、中国の化粧品市場の改革に着手した。
北京市第一軽工業局と交渉を重ねていくうちに、北京の試験工場が空いているので使ってみてはどうかという話を持ちかけられた。その当時、中国人の生活に必要だと思われるシャンプー、リンス、クリームなどを試験的に生産することにした。中国側と資生堂には「中国の人々の生活を豊かで美しいものにしたい」という共通認識があり、それを実現するべく83 年には日系企業初の日用品工場との第1次技術提携を締結した。技術提携は合計で4回締結し、91年まで続いた。