大手新聞社長、不倫もみ消すために海外へ飛ばした愛人帰国で戦々恐々!?
「由利菜と別れたら、幸運の女神が逃げてしまうんじゃないかと、不安だった」
だからといって、自分が社長になれるかもしれないなどと期待するほど、村尾はおめでたくはなかった。役員になれれば御の字だったのだ。もし源田が次期社長の本命のままだったら、村尾がボードメンバーに入ることなど、夢のまた夢だった。
「どっちにしても、名古屋と東京の間で遠距離同棲を続けたのは正解だった」
まさに由利菜は“あげまん”だった。名古屋転勤で袖にして別の女に走れば、長年の女性遍歴がばれるかもしれなかった。由利菜との関係について、社内で噂はくすぶり続けたが、村尾は記者としてあまりに小物とみられていたこともあり、週刊誌が取り上げることもなかった。
出世のほうは、思惑通り、順調に駒を進めた。村尾が名古屋に転勤して1年後の2000年6月に、富島は専務に昇格、大阪本社代表となったが、村尾はもう1年名古屋に残った。そして、富島が01年6月に副社長に昇格、大阪から東京に戻るのと同時に、村尾も名古屋生活2年で東京に戻り、広告局長に取り立てられた。富島が社長に就いた03年6月には、晴れて役員になった。あとはとんとん拍子で、広告担当常務、常務電子情報本部長、社長になる直前は電子情報本部担当専務だった。
名古屋から戻ったのは01年春、村尾は賃貸マンションも日亜役員にふさわしいところにしなければならない、と考えた。選んだのが「シスレー・ハウス神楽坂」だった。名古屋転勤前の市谷仲之町のマンションは80平米の広さだったが、今度は100平米の広さで、ベッドルームも2つあった。由利菜は喜び、その1つを自分の部屋にして、左内坂の自分のマンションにはほとんど帰らなくなってしまった。
「俺のように一人の女に満足できない男は、マンネリが一番だめなんだ。彼女が煩わしい気持ちはだんだん嵩じてきた。でも、新しい女を見つけたくても動きにくい。摘み食いも時たましかできなかったな。誰にも関心をもたれなかった記者時代が懐かしく思えたけど、出世と天秤にかけたら、仕方なかった。鬱々とした気分になりかけた時だな」
●転がり込んだ社長ポスト
電子情報本部担当専務だった08年初め、サラ金報道自粛密約事件と取材メモねつ造事件が明るみに出た。村尾の2年先輩で、社長の本命だった正田幸男専務(現日々テレビ社長)がねつ造事件で、富島とともに引責辞任に追い込まれた。そして、村尾に想像だにしなかった社長ポストが転がり込んだのだ。
富島は後任に村尾を指名することを決めた時、村尾に「女性問題を身綺麗にしろ」と命じた。慌てた村尾が由利菜との関係を打ち明けた。富島の出した結論は、由利菜を海外に出し、隔離する案だった。村尾はその案に飛びつき、由利菜のニューヨーク特派員が決まったのだ。社長昇格の2カ月前が定期異動だったのも幸運だった。
「俺が社長になるなんて、瓢箪から駒以外のなんでもなかった。でも、あの時、俺は少しほっとした。彼女と別れられる、と思ったんだ。3回目のチャンスだったな」
由利菜は特派員として転勤する時、当然、村尾が社長に昇格することを知っていた。だから、「なぜ急にニューヨーク特派員になるの?」とか聞くことはなかった。しかし、村尾と別れる最後の晩、由利菜はベッドのなかで「戻ってきたら、また一緒に住もうね」と耳元でささやいた。村尾は「もちろんさ。俺もそのつもりだよ」と答えたが、村尾は「由利菜がニューヨークいる間に、ほかに女をつくればいい」と、安易に考えていた。
しかし、社長になってしまうと、これまで以上に女をつくるのは簡単ではなかった。終日、監視されているようなもので、自由がきかない。水商売ならすぐにでもたらしこめたが、それは嫌だった。