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加茂田組に青春を捧げた元極道の手記(中編)

史上最大の抗争「山一抗争」を戦った、加茂田組・伝説の幹部たちの素顔

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加茂田親分と加茂田組を支えた男たち(『烈俠外伝』より)

 三代目山口組で最強の組織といわれた加茂田組。その親分だった加茂田重政氏の自叙伝『烈俠 ~山口組 史上最大の抗争と激動の半生』に続き、『烈俠外伝 秘蔵写真で振り返る加茂田組と昭和裏面史』が発売された。

 『烈俠外伝』は、豊富な写真や資料から、加茂田組三代目山口組の実像を浮き彫りにしているが、中でも、組織の内側から、親分の素顔や山一抗争の内実を語った元組員たちの証言は圧巻だ。

 元加茂田組系二次団体若頭補佐の沖中東心氏も、同書で若き日に得たさまざまな経験を述懐しているが、この度の『烈俠外伝』発売に際し、特別に手記を寄せてくれた。

 中編となる今回は、他の組織からも一目も二目も置かれる武闘派組織だった加茂田組を支えた幹部たちの思い出を振り返える――。(前編はこちら) 

多士済済だった加茂田組幹部

 神戸・番町の愚連隊から三代目山口組組長代行補佐にまでのぼりつめた加茂田重政氏。彼が率いた旧加茂田組の全容とは、どのようなものだったのか――。

 いくら昔のこととはいえ、私のような枝や葉っぱの未熟者、半端者がこのようなことを語っていいのかどうか、正直悩みに悩んだ。けれど、我が青春であり、命を賭けた加茂田組の歴史の一端が活字に残るのであれば……と、誠に恐縮ではあるが、記憶にある限り、当時の幹部体制を振り返ってみたい。諸先輩型には大変失礼、無礼ではあるが、何卒ご容赦願う次第である。

 私が加茂田組の配下の組と縁を持った当時、以下に記したような幹部体制だったように思う。

山一抗争当時の加茂田組幹部

■組長
加茂田重政
■副組長
塩見務(塩見組組長)
加茂田勇(政勇会会長)
■若頭
飯田時雄(飯田組組長)
■舎弟頭
木村弘(木村興業組長)
■舎弟頭補佐
山木信一(大響会会長)
長岡幸治(長岡組組長)
花田章(北海道花田組組長)
■若頭代行
大嶋巽(大嶋組組長)
■本部長
前田登
■若頭補佐
矢倉三郎(政心連合会会長)
木村阪喜(木村組組長)
中川昭吉(中勢連合会会長)
宮原省治(宮原組組長)
山本恵一(二代目紀州連合会会長)
(敬称略、記憶違いご容赦)

 いずれにしても、強烈な個性の面々である。現役の方はもう一人もいない。鬼籍に入られた方もいるし、抗争の犠牲になった方もいる。

 あの有名な西林健二組長の名前がないとご指摘する方がいるかもしれない。西林組長は恐らく、役なしの舎弟だったと記憶する。勇猛な番町の雄、高田一郎組長も舎弟だ。

 若頭の飯田時雄組長は、加茂田組には珍しく、対外的にもの凄く礼儀正しい面を持つ方だった。それゆえか、こと若衆の躾(しつけ)、行儀作法に関して厳しい人だった。飯田組の人たちは役付き以外、全員坊主頭だったし、本家の部屋住みたちは飯田組長が来たら直立不動で皆ピリピリしていた。

 飯田組長は刺青はまったく入れておらず、北海道の花田組長の葬儀の前日に、北見の旅館の風呂場でご一緒した際、「俺なりの理屈があって墨は入れんのや」と言っておられた。偉そうな言い方で恐縮だが、非の打ち所がない若頭だったと思う。加茂田組が解散して数年後、大阪・ミナミの中華料理店で飯田組長に偶然お会いしたことがある。そのときに「元気か」と声をかけていただいたのが最後となった。

 くだらない話ではあるが、私用で赤川(大阪市旭区)にあった飯田組に、飯田組長を訪ねて行った時のことだ。当番の人に「まあ、どうぞどうぞ」と言われてソファーに座ったはいいが、その拍子にズボンのケツがビリっ!と破れてしまったことがあった。帰り際、それが当番の人にバレないよう、壁伝いにケツを向けながら事務所を出たの思い出す(笑)。

テレビニュースに「知る人ぞ知る俠」が

 代貸の木村弘組長は、とにかく男前で、立ち居振る舞いはあたかも俳優のようだった。その上、放免などで挨拶の口上が天下一品だったのを記憶している。ある方の放免で、この木村弘組長と一和会直参の中川宣治組長(中川連合会)が続けて挨拶の口上をされた時は、圧巻の一言だった。

 大響会の山木信一会長、この方は貫禄の人である。まさに貫禄が服を着て歩いているような人なのだ。山木さんは元々は平和会出身で、二十代の若い頃から数百人の若衆を抱えていたとお聞きしている。加茂田組でも別格の人だった。山一抗争の最中に病に倒れられたが、二代目を継いだ和田昌弘会長は加茂田組解散後、初代宅見組の総本部長まで務められた。

 北海道の花田章組長は、北見の大親分だ。しかし、こんな言い方をしたら叱られるかもしれないが、小柄で愛嬌のある、チャーミングな人だった。早口過ぎて何を喋っているのかさっぱりわからず、そのためいつも横に通訳する若衆さんが付いていたのを覚えている。残念ながら不慮の事故で帰らぬ人となってしまわれたが、花田組長は普段から自分に万一のことがあれば、悲しまず、酒を飲み、カラオケをしてドンチャン騒ぎしてくれと言っておられたらしく、通夜の日も花田組若頭の丹羽さんは「申し付けられた通りドンチャン騒ぎします」と涙ながらに話していた。
 
 松山戦争で名前を知られるのが、六代目山口組の幹部でもあった木村阪喜組長だ。その抗争の責任者として、長期の懲役を務められた。加茂田組が解散した数年後、神戸からの帰りに伊丹空港まで木村組長を車で送らせていただいたことがあった。顔を合わせた折には、「また松山へ遊びに来いよ」と何度か声をかけていただいた。朴訥として、だが怖いほどの凄みがある親分だ。

 宮原省治さんは武士。越前の武士だった。

 もちろん、ここに挙げた幹部以外の方にも、凄い人たちがたくさんいた。うるさ型の岩田組長や、長期の懲役をかけた新井組長、滝本さん……等々。
 
 けれど今は昔。遠い話であるし、いま第一線で活躍している方はほとんどいない(と思う)。寄る年波、年齢もある。

 ところが、である。

 先日、ヤクザ組織再分裂の記者会見のニュースをテレビで見ていて、吃驚仰天してしまった。なんと、出た側である新組織の相談役として、土倉太郎さんが会見に列席されていたのである。

 土倉太郎……知る人ぞ知る俠である。彼は加茂田組きっての戦闘者といえるだろう。

 山一抗争で、抗争相手の若衆を射殺、2人に重傷を負わせて18年の懲役を務め上げた人だ。今現在は分裂し、脱退した側の組事務所にいる……と風の噂で聞いてはいたが、これには本当に驚いた。

 私は、この土倉太郎さんが大好きだ。根性はあるし、下には優しい。そして、決して偉そうな素振りを見せない。

「俺に気を使うなや。ヤクザなんか、なんも偉いことない。出るとこ出た時だけ、ピシッとしといたらええんやで」

 本部当番で一緒になった時に、土倉さんから直接、そう言われたことがある。だが「やる時はやる」という人で、私は彼をヤクザの中のヤクザだと思っている。

--後編に続く--

(文=沖中東心)

『烈俠外伝』(サイゾー)

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