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歴史は勝者が作るもの……「日本最大の内乱」が今に残す遺恨

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※画像:『戦況図解 戊辰戦争』(木村幸比古監修、三栄書房刊)

 歴史上の出来事に対するイメージは、その土地ごとに異なることが多い。例えば1945年8月6日と8月9日の広島・長崎への原爆の投下は、日本とアメリカでまるで見解が異なる。

 日本国内に目を向けても、そのような事例はいくつもある。その最たる例が、東北地方にある。今年は、その出来事が起きてから150年目。「歴史は勝者が作るもの」であり、敗者の歴史は語られないことが多い。それでも、今なおその地域に受け継がれる影響は残っている。

 150年前の出来事――大政奉還後の1868年から1869年にかけて、新政府軍と旧幕府軍が戦った、「日本史上最大の内戦」とも呼ばれる「戊辰戦争」である。

■「奥羽諸藩はすべて敵」

 1867年、江戸幕府が終わりを迎え、明治新政府が樹立された。しかし、事は倒幕派の思うように進まず、徳川慶喜の完全な排除を望む倒幕派の面々は、意図的に戦乱を引き起こす。その年の暮れに起きた旧幕府方による江戸・薩摩邸焼き討ち事件は、実は倒幕派が仕組んだ罠であった。

 その事件を受けた1868年1月1日、大阪にいた慶喜は「討薩の表」を発し、薩摩藩に宣戦布告。戊辰戦争の始まりを告げる鳥羽・伏見の戦いが起こる。この戦いで敗北を喫した慶喜は江戸に脱し、4月の江戸城無血開城を受けて身を水戸に移す。

 東北地方が戊辰戦争に絡むのは、慶喜の側近であった会津藩主・松平容保(かたもり)の存在が大きい。容保は京都守護職として京都の治安安定のために攘夷派の取り締まりにあたっていた。つまり、長州にとってみれば目の上のたんこぶであったわけだ。

 その背景もあり、鳥羽・伏見の戦い後、新政府軍は容保を慶喜に次ぐ朝敵であるとみなし、東北の大国・仙台藩の伊達慶邦に会津藩追討を命じる。

 これに対し、容保は自ら隠居・謹慎し、恭順の姿勢を見せる。一方、東北の各藩も会津藩の救解に奔走するが、東北の鎮圧を任された奥羽鎮撫使参謀の世良修蔵が断固として拒否する。実はこの世良という人物、「奥羽諸藩すべて敵」と見なしていたのだ。

 そして1868年5月3日、仙台藩を盟主とする奥羽列藩同盟を結成し、その3日後には長岡藩など北越6藩が加わり「奥羽越列藩同盟」が誕生する。

■今なお影響を残す戊辰戦争の跡

 近世史、幕末史の研究者である木村幸比古氏は、戊辰戦争はそれぞれが持つ「大義」のぶつかり合いであったと考える。

 新政府と対峙することになった奥羽越列藩同盟は、その結成にあたり結んだ盟約のはじめの一文に「大義を天下に伸ぶるをもって目的となす」とある。そして、この目的は「会津藩の救解」であった。

 だが、奥羽越列藩同盟や会津藩に訪れた結末は多くの人が知るところだろう。北越戦争(長岡城の戦い)、二本松の戦い、秋田戦争、そして会津戦争と敗北が続き、同盟から離脱する藩が続出。また、1868年7月に久保田藩が同盟からの離脱を表明し、一時は同盟軍側の攻撃に危機に陥るも、9月中旬に入り同盟軍が相次いで降伏し、難を逃れる秋田戦争が起きている。

 戊辰戦争後、新政府の主軸を担ったのは薩長閥の面々であった。もちろん、「朝敵」とみなされた藩の人々は不遇をかこつことになる。

 そして、この150年前の奥羽諸藩の敗北は、今なお影響を残す。たびたび「県民あるある」などで取り上げられる長州(山口県)と会津(福島県)の確執は、この戊辰戦争が発端だ。

 また、今年の夏の甲子園(全国高校野球選手権大会)で東北勢として初の優勝を目指し、決勝で力尽きた金足農業。そのSNSでの応援メッセージの中に、戊辰戦争に触れるものもあった。

 戊辰戦争は1年半にわたって繰り広げられ、京都から北海道という広い地域で戦闘が行われたこと、それぞれの大義をかかげていたことから、多少分かりにくい部分もある。戦況図を豊富に用いて説明をする『戦況図解 戊辰戦争』(木村幸比古監修、三栄書房刊)を参考としてまとめている。今なお、その影響を残す150年前の大乱について知ってみる良い機会だろう。
(新刊JP編集部)

※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。

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