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徳川家定の御台所・篤姫だけじゃない!徳川将軍家と島津家との150年の奇妙なる関係史

文=菊地浩之
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徳川家定の御台所・篤姫だけじゃない!徳川将軍家と島津家との150年の奇妙なる関係史の画像1
NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、13代将軍・徳川家定を渡辺大知が、篤姫を上白石萌音が好演している。代々、公家や皇族から正室を迎えることを通例としていた徳川家が、なぜ島津斉彬の養女・篤姫を正室に迎えたのだろうか?(画像は同番組公式サイトより)

その1:始まりは150年前…5代将軍・綱吉の側室の養女、巡り巡って島津藩主・島津継豊に輿入れす

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』で、13代将軍・徳川家定(演:渡辺大知)が島津斉彬(なりあきら)の養女・篤姫(演:上白石萌音)を正室に迎える。2008年のNHK大河ドラマ『篤姫』で有名な、あの篤姫である。徳川将軍家は3代将軍・徳川家光以来、公家や皇族から正室を迎えることを通例としていた。それが急になぜ、島津家からなのか。その契機は、実に150年前まで遡る。

 5代将軍・徳川綱吉の側室、大典侍(おおすけ)の局は公家・清閑寺煕定(せいかんじ・ひろさだ)の妹で、煕定の娘・竹姫を江戸に迎えて養女とした。これは大典侍が子に恵まれなかったためにみずから望んだことだといい、竹姫は叔母を介して綱吉の養女となったわけである。

 宝永5(1708)年、幕府は薩摩藩主の嗣子・島津継豊(つぐとよ)と竹姫の婚礼を打診した。ところが、島津家は外様大名としては珍しく他の大名との縁組みには消極的で、一族や公家から正室を迎えることが多かった。継豊はまだ8歳、竹姫も4歳の幼女だったこともあり、島津家はこの縁談を丁重にお断りした。そこで、会津藩主の子や有栖川宮正仁(ありすがわのみや・まさひと)親王との縁談を進めたが、それらの2人はともに若くして死去してしまう。

 そうこうしているうちに、徳川吉宗が8代将軍に就任。吉宗は大奥の縮小化を図っており、行き遅れた竹姫(25歳)の縁談を早急にまとめる必要に駆られていた。一説には、吉宗は竹姫を気に入っており、自分の継室に迎えようとしたが、竹姫は系図上の大叔母にあたるため、家臣が必死に反対して思い止まらせたという。

 そこで、幕府は再び島津継豊との縁談を画策。紙幅の関係で大幅に割愛するが、享保14(1729)年、竹姫は8代将軍・吉宗の養女として島津家に輿入れした。

 婚礼にともない、薩摩藩芝藩邸(東京都港区)の拡張、竹姫の住まいである御守殿(ごしゅでん)の建設ほか、莫大な費用がかかった。

 しかし、竹姫の輿入れで島津家が得たものも大きかった。

 まず、官位である。島津家はそれまで従四位(じゅしい)までしか許されていなかったが、竹姫の輿入れ後は従三位(じゅさんみ)まで昇進できるようになった。ついで、将軍家、大奥と太いパイプができたことである。

その2:再び徳川家から島津家へ…9代将軍・家重、一橋徳川宗尹の娘・保姫と島津重豪との婚姻をすすめる

 江戸時代は先例と格式が重視される。竹姫の輿入れ後、島津家は将軍家との縁談を重ね、政治的な地位を高めることができた。

 9代将軍・徳川家重は、薩摩藩主の子・島津重豪(しげひで)と、自身の姪にあたる一橋徳川宗尹(むねただ)の長女・保姫(やすひめ)との婚礼をすすめた。実はこの重豪、両親を早くに亡くし、義理の祖母・竹姫に育てられた秘蔵っ子だったのだ。

 かくして、宝暦12(1762)年、重豪は保姫と結婚した。

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徳川家定の正室・篤姫。長寿なお篤の先例もあり、「島津家の娘ならめでたい」と病弱で有名な家定の正室として迎え入れられた。画像は尚古集成館所蔵品(Wikipediaより)。

その3:島津家から徳川将軍家へ…島津重豪の娘・お篤が、思いもかけず11代将軍・家斉の御台所へ

 竹姫は保姫より長生きしたので、保姫亡き後、島津家と徳川家の関係が途絶えることを危惧し、重豪に女子が生まれたら徳川家に輿入れさせてほしいと遺言した。

 竹姫の死の翌年の6月に島津重豪に三女・お篤が生まれ、10月に一橋徳川治済(はるさだ)に長男・豊千代が生まれた。安永5(1776)年に幕府から豊千代・お篤の縁談が命じられた。

 ここで思いがけない事態となる。

 10代将軍・徳川家治の嫡男が18歳の若さで頓死し、豊千代が次期将軍候補に選ばれたのだ。

 豊千代は一橋屋敷から江戸城本丸に入り、徳川家斉(いえなり)と名を改めた。これにともない、お篤は江戸城本丸に引き取られ、将来の御台所(みだいどころ、将軍正室)として養育され、天明7(1787)年に輿入れした。将軍家の正室としては珍しく男子をもうけたが、残念ながら早世してしまった。

その4:そして篤姫へ…家斉の正室・お篤にあやかって「篤姫」と名付け、13代将軍・家定の継室へ

そして、家斉の孫、13代将軍・家定に正室を迎えたいと、幕府から島津家に打診があった。

 これには前段がある。家定は病弱な将軍として有名だが、正室はもっと病弱だった。鷹司家から迎えた正室と夫婦仲がよかったといわれているが、結婚8年目、わずか26歳で彼女は死去。次いで正室に迎えた一条家の娘も結婚2年目に26歳で死去してしまう。

 家定は2人続けて正室の死去に立ち会い、すっかり継室を迎える気をなくしていた。

 そこで、かつて家斉の正室・お篤に仕えていた大奥女中が、長寿で幼君をも出産したお篤にあやかり、島津家から健康な姫君を継室に迎えてはどうか、島津家に年頃の娘はいないのかと、薩摩藩の世子・島津斉彬(なりあきら)に打診した。家定も公家の娘はこりごりだが、島津家の娘ならお篤の先例もあり、めでたいのでよいという。

 斉彬に妙齢の娘はなかったが、従姉妹のお一を養女に迎え、篤姫と名を変えて縁談を進めた。いうまでもなく、家斉夫人にあやかってのことである。ペリーの来航やら、12代将軍・徳川家慶(演:吉幾三)の死去、家定の将軍宣下など諸々の事情があって婚儀が遅れに遅れたが、安政3(1856)年12月に篤姫は21歳で婚礼を挙げた。

 島津斉彬が篤姫を正室に遣わしたのは、当初は疎遠になりつつあった徳川家との親密さを取り戻すためのものだったらしい。ところが、政治状況が複雑困難になってくるなかで、英邁な一橋徳川慶喜(演:草なぎ剛)の将軍就任を期待する声が高まり、斉彬もその動きに同調すると、篤姫を介して家定に慶喜後継を働きかけるようになっていった。

 篤姫は養父・斉彬からの密命を帯び、婚礼後に家定の生母や大奥の歌橋(演:峯村リエ)らに、慶喜を家定の養子にすることを打診した。新婚早々、妻とその父親が養子を迎えようと言い出すのは、通常あり得ない。当然、家定は激怒し、家定の生母・本寿院らは篤姫に控えるように迫った。

 しかも、家定は慶喜を激しく嫌っていた。疱瘡(ほうそう)の跡が残る家定には、すこぶる美男子であった慶喜に対する強い嫉妬心があったという。また、家定は首を振る癖があり、顔面が引きつることもしばしばあり、その劣等感から内気で、いざとなると口が利けなくなることもあった。いわば劣等生による優等生への嫌悪であろう。

 家定は従兄弟の徳川家茂(いえもち/演:磯村勇斗)を次期将軍に指名した。

NHKの“ルール破り”『いだてん』…源流は宮崎あおい『篤姫』の異端児プロデューサーかの画像3
放送当時に発売されたムック本『NHK大河ドラマ・ストーリー 篤姫』(発売:NHK)

その5:篤姫の次もあった…篤姫が残した遺言「家達に子が生まれたら、ぜひ島津家から嫁を」

 家定の死後、篤姫は落飾して天璋院と名乗った。篤姫は慶喜擁立工作に派遣されてきたようなものだが、実際に大奥に入ると人物の好みが正反対になっていたらしい。家茂は周りの人間を虜にしてしまう魅力を持っていたようで、天璋院もその魅力に取り込まれてしまった。その一方、篤姫から見た慶喜は「女性を小馬鹿にして、うそばかり言って、いいかげんで信じられない」人物だったらしい(勝海舟談)。

 慶喜が大政奉還して、慶応4(1868)年1月に鳥羽・伏見の戦いに敗北。逃げ帰ってくると、幕府は篤姫を薩摩藩に返して徳川家の延命を願おうとする案が出たという。しかし、篤姫は「もし無理に里に帰そうとするなら自害する」といってきかなかったという。篤姫はすっかり徳川家の人間になっていた。

 篤姫は薩摩藩の重鎮・西郷隆盛宛に書状を出して、徳川家に対する寛大な処分を嘆願した。結局、勝海舟・西郷隆盛が薩摩藩邸にて会談し、徳川家は家名存続、江戸城開城などの条件で決着が付いた。

 慶喜が将軍職を辞し、徳川家の家督は9歳の徳川家達(いえさと)が継いだ。篤姫は家達を養育し、窮乏のどん底にあった徳川の家計をきり回した。

 やがて家達が結婚し、夫人が妊娠すると、篤姫は「今度、男子が生まれたら、ぜひ島津家から嫁をもらってほしい」と遺言。明治16(1883)年11月に死去した。享年49。

 翌明治17年3月に家達の子・徳川家正(いえまさ)が生まれ、その翌年に島津家の当主・島津忠義(久光の子)に正子(なおこ)が生まれたため、篤姫の遺言にしたがって2人が婚礼を挙げた。家斉の時といい、この時といい、よくまあちょうどよく、両家に男女が生まれるもんだと感心せざるを得ない。「縁は異なもの」というが、そんなところなのかもしれない。
(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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