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『青天を衝け』阿部正弘を老中へ導いた血筋と実力主義…家柄を問わず抜擢された幕末時代

文=菊地浩之
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『晴天を衝け』では岸谷五朗が演じる井伊直弼の先祖・井伊直政は、遠江(静岡県西部)の名門家系に生まれ、家康の小姓となり、その才覚によって譜代筆頭に取り上げられた。では、幕閣の主要人物のご先祖様はどのような人物だったのだろうか? (画像はNHK大河ドラマ『青天を衝け』公式サイトより/以下、同)

大老・井伊直弼(いい・なおすけ)は井伊直政の子孫…家康の小姓から譜代筆頭へ

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』で、幕閣の中心人物だった阿部正弘(あべ・まさひろ/演:大谷亮平)が死去した。そして、堀田正睦(ほった・まさよし/演:佐土井けん太)がその跡を継ぐが、井伊直弼(いい・なおすけ/演:岸谷五朗)が大老に就任すると、堀田は引退に追い込まれる。

 また、「安政の大獄」と呼ばれた反対派の粛清で、実務担当者だった川路聖謨(かわじ・としあきら/演:平田満)、永井尚志(ながい・なおゆき/演:中村靖日)、岩瀬忠震(いわせ・ただなり/演:川口覚)は謹慎や隠居を申し付けられ、徳川斉昭(とくがわ・なりあき/演:竹中直人)も永蟄居とされた。

 井伊直弼の先祖・井伊直政は、2017年のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』に出てきたことを覚えている方もいらっしゃるだろう。遠江(静岡県西部)の名門家系に生まれ、家康の小姓となり、その才覚によって譜代筆頭に取り上げられたのだ。では、阿部や堀田など幕閣の主要人物のご先祖様はどのような人物だったのだろうか。

『青天を衝け』で死去した阿部正弘ら幕閣の人物評…家柄なくとも抜擢された幕末という時代の画像1
井伊直弼の4男、井伊直安が明治に入って描いた井伊直弼像。直安は越後与板藩の第10代藩主を務め、そのまま明治維新を迎えた。(画像はWikipediaより、豪徳寺所蔵のもの)

老中・阿部正弘(あべ・まさひろ)のご先祖は家康のご学友…家康を厳しく指導したから嫌われた?

 阿部家は三河出身で、少なくとも家康の祖父の代から仕えていた。

 正弘の先祖・阿部正勝は、家康が尾張の織田家、駿河の今川家の人質になっていた時に同行した、いわば「ご学友」である。

 近年の学説では諸説あるのだが、従来説だと、家康ははじめ今川家の人質になる予定で19人のお供を従えていたが、その途中で織田家に連れ去られ、お供も阿部正勝と平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)の2人に絞られた。この2人は駿河時代も共にしている。

 といったわけで、親吉は家康の無二の親友だったらしい。家康が長男・信康を独立させると、親吉をその傅役(かしづきやく・守り役)にした。信康切腹後、親吉は責任を感じて謹慎したが、家康はこれをなだめて甲斐(山梨県)を預け、関東に転封になった時には3万3000石を与えた。家臣団の序列No.6で、結構な厚遇である。そして、親吉に子どもがなかったので、自分の8男・仙千代を養子にして、仙千代が早世すると、9男・尾張徳川義直の傅役として、尾張犬山12万3000石を与えた。

 一方の阿部正勝は――というと、ほとんど評価されなかった。

 関東入国で親吉が3万3000石を賜った時、正勝はわずか5000石だった。あくまで、想像の域を出ないが、2人の違いは年齢にある。親吉は家康と同い年、正勝は1歳年長だった。正勝がお兄さん的な立場で家康を指導したか、もしくは下級生いじめをしたのかもしれない。家康は人質時代のお供を意外に厚遇していないので、いじめられっ子体質だった可能性が高い。

 阿部家が出世するのは、正勝の子・阿部正次(まさつぐ)以降だ。正次は優秀な官僚だったらしく、加増を重ねて最終的には8万6000石を領した。3代将軍・徳川家光の時に、若年寄の原型となる「六人衆」が登用されるのだが、正次の子・阿部重次(しげつぐ)はそのひとりに選ばれた。こうなると、前例踏襲の江戸幕府では強い。歴代当主が老中に選ばれ、「阿部さんちのお子さん、まだ若いけど優秀だから老中にしちゃおうよ」というわけで、幕末の阿部正弘は25歳の若さで老中に就任したのだ。

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若き“エリート老中”であった阿部正弘(画像はWikipediaより、洋画家・二世五姓田芳柳が明治末頃に描いたもの)。その先祖・阿部正勝は、家康の人質時代“ご学友”であった。
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堀田家と井伊家の関係家系図

老中首座・堀田正睦(ほった・まさよし)のご先祖は春日局の養子…5代将軍・綱吉の擁立に活躍

 堀田家は尾張津島(愛知県津島市)の有力者の家柄で、いわゆる三河譜代ではない。

 織田信長の実家は津島近くの勝幡だったのだが、津島出身者はその割に出世していない。当時の堀田家の当主は前田利家の与力(利家の軍事指揮下に属している信長の直臣)で、いわゆる「その他大勢」の位置づけだ。

 秀吉は若い頃から津島に出入りし、堀田一族と縁が深かったらしい。堀田一族は信頼されているがゆえに、側近・旗本衆として登用され、禄高は控えめ、そんなに出世しなかった。

 ところが、そんな一族のなかで堀田正吉(まさよし)は、秀吉の養子だった小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)に仕え、秀秋の家老・稲葉正成(いなば・まさなり)の娘と結婚。これで堀田家の運命が変わる。正成の後妻が、3代将軍・家光の乳母、春日局だったからだ。春日局関連銘柄ということもあって、正吉の子・堀田正盛(ほった・まさもり)は先述の阿部重次とともに「六人衆」のひとりに選ばれ、のちに老中となった。

 さらに、正盛の三男・堀田正俊(ほった・まさとし)は2歳にして春日局の養子になる。もう、エリートコースに乗ったも同然である。正俊は老中に登用され、4代将軍・家綱が死去すると、綱吉の擁立を主張。当然、綱吉が将軍に就任すると大老に大抜擢された。

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阿部正弘に譲られ老中首座を務めた堀田正睦(画像はWikipediaより)。井伊直弼が大老に就任すると失脚した。
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旗本の出ながら数々の要職に就き、明治になっても活躍した永井尚志。(画像はWikipediaより)

軍艦奉行・永井尚志(ながい・なおゆき)のご先祖はハンサムで文武両道…小牧・長久手の合戦で大活躍

 永井尚志の先祖・永井直勝(ながい・なおかつ)はかなりの美少年だったらしく、家康の長男・信康の寵童として家臣に採用された。

 ただしこの直勝、文武両道に秀でた井伊直政タイプだったらしい。小牧・長久手の合戦では、秀吉方の部将・池田恒興(いけだ・つねおき)を討ち取る大手柄を挙げた。後日、恒興の子・池田輝政(てるまさ)が直勝と対面する機会があった。父の最期の話を聞いて、去り際に「ところで、貴殿の石高は? ……父の首は5000石かぁ」とつぶやいた。それを伝え聞いた家康は、あわてて直勝に加増したという。かくして数度の加増があり、官僚としても優秀だったので、最終的に8万9000石を領するに至った。

 ハンサムで文武両道の直勝に、家康はひとつ気に入らないことがあった。苗字が長田(おさだ)だったのだ。家康は大の源頼朝ファンなので、頼朝の父を裏切って殺した長田忠致(ただむね)のことが許せない。家康は直勝に改姓を命じた。

 ここから先は想像ではあるが、「長田だから、長尾か長井にでもするか。毛利の一族に永井というのがあるから、それにするかぁ」という具合に永井に改姓したようだ。しかも大胆なことに、長田家は平氏なのに、永井に改姓した途端、大江氏(毛利家の先祖)の子孫を名乗り、家紋も毛利家と同じ「一文字に三つ星」に変えてしまったのだ(ただし尚志は分家筋なので、違う家紋を使っていたようだ)。

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阿部家と永井家の関係家系図

外国奉行・岩瀬忠震(いわせ・ただなり)のご先祖は「誰だそれ?」状態…でも本当は伊達政宗にも連なる秀才

 岩瀬家はもともと今川家の旧臣で、今川没落後に家康に仕え、岩瀬氏与(うじもろ)が1500石を賜っている。誰だそれ? 忠震の家系はその分家筋・800石の旗本であるから、さらに「誰だそれ?」である。

 ただし、岩瀬忠震は養子で、実家は設楽(したら)家1400石。祖父は婿養子で、その父は摂津麻田藩主・青木一貫(かずつら)。一貫もまた婿養子で、実家は伊達家。さかのぼれば、伊達政宗にたどりつく。しかも、母方の祖父は林述斎(はやし・じゅっさい)といって、今でいえば東大総長みたいなヤリ手。だから、忠震自身もものすごく優秀で、抜擢されたという。

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岩瀬忠震の岩瀬家と、小栗忠順の小栗家との関係家系図

勘定奉行・川路聖謨(かわじ・としあきら)のご先祖は旗本ですらない…家柄がなくても能吏として抜擢された幕末という時代

 11代将軍・家斉の時に江戸幕府が編纂した大名・旗本の系図集『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)に川路という家は採録されていない。つまり、川路家はそれ以降に取り立てられた新規の家系なのだ。

 しかも聖謨は養子で、実父は豊後日田の代官所に勤める役人だった。父が上京して御家人の株を買い、聖謨は8歳で御家人の養子となって勘定方(今でいう財務省)の下級役人からスタートして、51歳で勘定奉行(財務省事務次官、もしくは局長クラス)に大出世。バツグンに優秀で、魅力的な性格の持ち主だったが、顔が、顔が……ちょっと、いや、かなり残念だった。

 つまり、井伊直弼や阿部正弘のように、家康の時代から徳川に仕えていた者の子孫たちが幕政を切り盛りしていた反面、川路聖謨のような、旗本・御家人とは関係ない出自でありながらも優秀な人材が登用されていた。幕末とはそういう時代だったのだ。

 だからこそ渋沢栄一は、農民出身であっても一橋徳川家に召し抱えられ、幕臣に取り立てられることができたのだ。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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