精神科医が語る“戦国一の極悪人”松永久秀…信長の持つ革新性への無理解から裏切った?
戦国時代の武将であった松永久秀は、日本の歴史の中で突出したヒール(悪役)のひとりで、下剋上によってのし上がった人物の典型例として紹介されることが多い。彼は彼の仕業とされたさまざまな「悪事」によって、人格的にも酷薄で問題の多い人物とみなされることが多かった。本稿における記載は主に、金松誠氏による『松永久秀』(戎光祥出版)を参考にしていることをお断りしておく。
江戸時代の逸話集『常山紀談』によれば、織田信長が徳川家康に松永を紹介するときに、次のように述べたという。
「この翁は、世の者がなしえぬことを三つやりおおせた。将軍を弑逆し、主君である三次氏を殺し、大仏殿を焼いたのだ」(砂原浩太朗『逆転の戦国史』小学館)
これまでの歴史書によれば、松永は、室町幕府第13代将軍の足利義輝を殺害し、奈良東大寺の大仏に火をはなって炎上させ、さらに主君であった三好義興も自ら手をかけて殺害した“大悪人”であると伝えられている。
こうしたエピソードは織田信長の伝記である『信長公記』の筆者である太田牛一が別の文書にも記載していることから、事実であると信じられてきた。ところが改めて同時代の資料を見直してみると、後世の創作である部分が少なからず見られることが判明しつつあるらしい。
むしろ、藤岡周三氏が指摘するように、尾張時代には自ら織田の本家に取って代わって織田家の総帥となり、将軍足利義昭を殺害しないまでも京都から追放し、さらに比叡山の焼き討ちまで行った信長本人こそ、「世の者がなしえぬことを三つやりおおせた」張本人なのである。(藤岡周三『松永久秀の真実』文芸社)。
松永久秀は、単なる土豪から城持ちの大名にまで異例の大出生をした“異脳”の人物
久秀は、1508(永正5)年の生まれである。その出自については諸説があるが、摂津東五百住(現・大阪府高槻市)の出身であるという説が有力で、地元の土豪層の出身であると考えられている。その出自を考えると、豊臣秀吉ほどではないにしろ、久秀は単なる土豪から城持ちの大名にまで異例の大出生をした人物であり、下剋上の時代を生き抜く「異脳」を持っていたものと思われる。
久秀が頭角を現したのは、細川家の家臣、三好長慶の下においてである。三好長慶もまた戦国時代の申し子のひとりであった。1549年、三好長慶は主君である細川晴元と争い、和睦の結果、摂津下郡にある越水城に入城した。これ以後、久秀は三好長慶の配下に入ることとなったようである。
その8年後、三好長慶が京都を制圧したときに、久秀は長慶の「内者」に任命されている。この役職は有力大名の直属の部下を示す役職であり、久秀が台頭してきたことを示すものである。
ただ、その後も畿内の情勢は安定しなかった。三好長慶は細川晴元らとの戦闘を断続的に継続した。両者の間では何度か和睦がかわされては、それが破棄されることを繰り返した。武将たちの離合集散、部下や親族の裏切りは日常茶飯事のことだった。
1553年、久秀は三好長慶の指示によって、摂津滝山城の城主となっている。ただし久秀自身は側近としての役割を果たすため、自らの家族とともに芥川城に滞在していたようである。
1558年、将軍足利義輝、細川晴元の軍勢が京都に攻め入り、三好長慶、久秀らがこれを迎え撃ったが、数カ月の攻防の後に両者は和解した。これ以後、三好方は河内、大和などへの侵攻を開始している。
1559年、久秀は大和に侵入し、筒井順慶を追いやって、筒井城を本拠地とした。これ以後、久秀は積極的に大和に侵攻し、ほぼ大和一国を手中に収め、信貴山城を本拠地に定めた。さらに1560年には奈良県の北部に多聞山城を築いている。しかしその後も戦闘は止まず、三好方と、将軍義輝、六角氏らとの戦闘が繰り広げられたが、最終的には三好方の勝利に終わっている。
主君・三好長慶の嫡男を殺し、将軍足利義輝を自害に追い込み、東大寺に火を放ったとされる松永久秀
これ以後、しばらくの間は比較的平穏な時期が続いたが、1563年頃より状況は一変した。この年の6月、三好長慶の嫡男である三好義興がわずか22歳で死去した。後にこれは久秀により毒殺されたという噂も流れたが、根拠はない風説のようで、同時代にそのような記録は残されていない。しかしいずれにせよこの義興の死をきっかけとして、三好氏の覇権は大きく揺らいでいく。
1564年には、長慶は弟である安宅冬康を飯森城で殺害した。この事件は久秀の讒言によるものといわれているが、長慶自身もその2カ月後に病死してしまった。このため長慶の養子である三好義継が三好家の後継となり、久秀と、いわゆる“三好三人衆”がこれを補佐することとなった。
将軍の弑逆という大事件が起きたのは、1565年のことである。三好義継、松永久通(久秀の長男)らが京都の二条御所を攻めて、将軍である足利義輝を自害に追い込んだ(永禄の変)。
この事件の真相は明らかになっていない。久秀を黒幕と主張する者も多いが、久秀自身はこの事件の際には大和にいたことが明らかになっており、確実な証拠はみられていない。当時日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスは、久秀が黒幕であると述べている。ただしフロイスの書簡はその晩年に記載されたものであり、同時代の資料ではない。
将軍殺害の後、久秀は一時三好三人集と敵対し、1566年、戦乱のなか、東大寺の敵方を攻めた際に、大仏殿に戦火が及びこれが全焼してしまう。ただしこの火災は松永方が意図的に行ったものではないようであり、三好方が火を放ったという話もある。
この年の末、久秀は領国の支配を確立するため、新興勢力である織田信長と同盟を結んだ。久秀は三好三人衆の攻勢に苦しめられたが、翌年の信長の上洛により息を吹き返し、大和の奪還にも成功した。以後、久秀は信長の配下の武将として大和の国に君臨する。
ところが1573年、久秀は突然信長に反旗を翻し、足利義昭とともに大阪方面に兵をすすめるが、その年の10月に多聞山城を攻められて降伏してしまう。久秀は城を明け渡し、信長の軍門に下った。しかし久秀はそのまま信長の配下に置かれることを潔しとせず、1577年、再度反旗を翻し、自らの城である信貴山城で壮絶な最期をとげている。
松永久秀は織田信長の持つ革新性についていけなかったのではないか
それでは実際の久秀はどのような人物だったのか。
彼は明らかに「成り上がりもの」であったが、成り上がるにふさわしい実力を持った人物であった。戦にも強いが領地の管理能力もあり、また茶に詳しい文化人でもあった。このため、一時は畿内の覇者となった三好長慶から重用されたのである。また自国においても善政を行ったことで知られ、領民からも慕われていたという(松尾和彦『悪役たちの日本史』叢文社)。
ただし下克上を体現した人物であったにもかかわらず、久秀には信長のように旧来の制度を大きく変革する技量と意思は持ち合わせなかった。また世の中の覇者になろうという野望を持っていたわけでもなかった。
久秀はいったん信長の配下となったが、繰り返し反旗を翻したのは、信長の持つ革新性についていけなかったからのように感じられる。そういった意味では久秀は旧秩序の中にいる人物であり、「悪の帝王」のように語られることが多かったにもかかわらず、実はまっとうな常識人であったようにも思える。
この松永久秀の話からは、海外の話ではあるが、英国の国王であったリチャード三世のことが連想される。中世の英国、リチャード三世の在位は1483年から1485年のわずか2年あまりであったが、シェークスピア作品のタイトルになっていることもあり、その名は広く知られている。
リチャード三世の時代は日本の室町時代にあたり、1467年の「応仁の乱」以降、いわゆる戦国時代の前期にあたる時期である。
シェークスピアは意図的にリチャード三世を「悪役」として脚色したのではないか
リチャードはしばしば、極悪非道の王として語られてきた。彼は、兄である前国王エドワード四世の息子である2人の少年をロンドン塔に幽閉した後に殺戮し、王位を簒奪したと歴史書は伝えている。だが、王となったリチャード三世の政権基盤は弱く、リッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)の反乱によりボズワースでリチャードは戦死し、ヨーク朝は終焉した(2012年、リチャード三世の遺骨が英国中部の都市レスターで発見されている)。
リチャード三世の「悪名」を決定的にしたのが、シェークスピアであった。「ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪ってやる」というのは、芝居の冒頭にあるリチャードのセリフである。この作品のなかでシェークスピアは、怪異な容貌と鬱屈した野心を持つリチャードが、神をも恐れない悪業を重ねていく様子を描いているが、これは事実とまったく正反対であるという説も論じられている。
というのは、シェークスピアのつかえたチューダー朝はヘンリー7世から始まる王朝であったため、シェークスピアは意図的にリチャード三世を「悪役」として脚色したというのである。
イギリスの女流作家、ジョゼフィン・テイに、『時の娘』という作品がある。フィクションではあるが、「リチャード三世悪人説」を真っ向から否定しているものとして興味深い。
骨折のため、退屈な入院生活を送っていた主人公のグラント警部は、たまたま手にした歴史書を読み続けるうちに、「悪王」といわれてきたリチャード三世の悪評について疑問を持つようになった。グラントは安楽椅子探偵として古い資料を集め、常識とは異なる結論を導き出し、「リチャード三世は公正、誠実な君主であり、権謀術数を尽くしたのはリチャードを倒したヘンリー7世ではなかったのか」と結論している。
イギリスには「リチャード三世協会」という組織があり、「リチャード三世はチューダー王朝の下で歴史的に汚名を着せられた」と訴えているが、『時の娘』は協会の活動に大きな刺激となったらしい。リチャードの場合と同様に、松永久秀の「悪名」が誤りであったことは、次第に明らかにされていくのかもしれない。
(文=岩波 明/精神科医)