
キッコーマンは中野祥三郎専務執行役員(64)が6月22日付で社長最高執行責任者(COO)に昇格する。堀切功章社長最高経営責任者(CEO、69)は会長CEOとなる。堀切氏は会見で、社長交代の理由について「コロナ禍で現在、世界中が非常に大きな変化を余儀なくされている。経済、社会生活においても、当社や食品業界としても、かつて経験したことのない環境に置かれている。そういった中で変化をうまくチャンスに変えていくために、新しい経営体制で臨みたい」と説明した。
中野氏は「キッコーマンは江戸時代から時代時代の社会的要請に応え、進化することで企業として持続してきた。これからも生活者の皆様の期待に応えるとともに社会の課題の解決に貢献して参りたい」と抱負を語った。「生活者の行動、考え方が変わり、食や健康への関心も高まっている。それらにどう応えるかが、企業としての成長にかかわると思っている」と、コロナ禍における心構えを述べた。
同族間での社長交代である。毒舌で鳴らした評論家の大宅壮一はキッコーマンの本拠地・千葉県野田を「醤油藩の城下町」と呼んだ。その大宅はキッコーマンの八家の複合的同族経営を「まるでジャングルだ」とも評した。それこそ密林さながらに、血脈が複雑にからみあって、濃密な同族関係を形成していたからである。
八家で経営していれば内紛やお家騒動があって当然だが、キッコーマンにはそれがない。まことに不思議な同族経営なのである。お家騒動がないのは、後継者選びのルールがきちんと決められているからだ。各家は男子ひとりしか入社させない。そして、ナンバー2が社長になるという、シンプルなルールを踏襲している。だから八家は子弟の教育に力を入れた。1人だけしか入社できないから、息子が優秀でない時には、外部の血を入れることをためらわなかった。養子を迎えて家の代表として入社させたのである。八家をそれぞれ1人に限定したのは、数を頼みとする社内の主導権争いを封じるためである。
キッコーマンの歴史は、大坂夏の陣に敗れた豊臣方の武将の未亡人が野田に住みついたことに始まる。事業の祖は1661(寛文元)年に醤油醸造を始めた高梨兵左衛門。この高梨家から分かれた茂木七左衛門が1766(明和3)年に本格的に事業に乗り出した。七左衛門が分家に醸造蔵を分け与えて独立を促す拡大路線を採ったことから、茂木姓を名乗る醸造家が増えた。分家にチャンスを与えた七左衛門家が茂木本家と呼ばれている。
今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』は「日本資本主義の父」といわれた渋沢栄一が主人公である。渋沢はキッコーマンの生みの親だ。江戸で幅をきかせていた関西の醤油を駆逐し、繁盛を続けた結果、明治・大正時代には二十数軒の本家・分家が乱立し、野田の街には醤油の匂いが充満した。同じ茂木家同士で激しい販売競争が繰り広げられ、共倒れの恐れも出てきた。