ビジネスジャーナル > 企業ニュース > 反田恭平さんが示した新しいショパン
NEW

ショパンコンクールで51年ぶり快挙…反田恭平さんの日本人離れした力強い音の源

文=篠崎靖男/指揮者
ショパンコンクールで51年ぶり快挙…反田恭平さんの日本人離れした力強い音の源の画像1
「Getty Images」より

 ポーランドの首都ワルシャワで行われたフレデリック・ショパン国際ピアノ・コンクールにおいて、日本人ピアニストの反田恭平さんが第2位、小林愛実さんも第4位を受賞されました。この快挙のニュースは、世界中の音楽業界のみならず、日本のニュースやワイドショーでも取り上げられています。

 このお2人は桐朋女子高等学校音楽科の出身です。僕は桐朋学園大学音楽学部で勉強したので、後輩のように思えて、なおさらうれしいです。

 余談ですが、この桐朋学園女子高等学校音楽科は、指揮者の小澤征爾先生やヴァイオリニストの竹澤恭子さんをはじめ多くの世界的な音楽家を輩出していますが、反田恭平さんのように男子学生も通うことができる不思議な女子高なのです。

 これは、幼少からの音楽英才教育を実践していた斉藤秀雄、井口基成らが、高校の音楽科を創設しようと呼びかけていたなかで、快く応じたのが桐朋学園女子高等学校だったことによります。しかし、当時の男子学生は、自宅の最寄りの駅で学生定期券をつくるために生徒手帳を出しても、「これは女子校の定期券じゃないか。偽装してはだめだよ」と駅員から叱られ、追い返されることもたびたびあったと聞きます。現在もなお、桐朋学園女子高等学校音楽科に男子学生が通うという珍しいかたちを取っています。

 反田さんと小林さんは1歳違いなので、高校時代には廊下などですれ違っていたはずですが、今回はショパン・コンクールの大舞台でワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団をバックに、お互いにショパンのピアノ協奏曲を演奏し、ダブル受賞となりました。

ショパン・コンクールが特別な理由

 このショパン・コンクールは音楽コンクールの最高峰と目され、ベルギーの「エリザベート王妃国際音楽コンクール」やロシアの「チャイコフスキー国際コンクール」と並んで「世界三大コンクール」とも称されています。スポーツでいえば、テニスのグランドスラムのようなもので、これまでもマルタ・アルゲリッチ、マウリツィオ・ポリーニ、クリスティアン・ツィマーマン、内田光子さんらを世界に送り出しています。ちなみに、反田さんの2位受賞は、1970年に2位を受賞され、今も世界の一線でご活躍の内田さん以来、51年ぶりの快挙です。

 ショパン・コンクールは1927年に始まって、基本的に5年に一度開催されており、現存する国際ピアノコンクールのなかでは世界最古とされています。テニスでいえば一番古く、伝統と名誉あるウィンブルドン選手権のような特別な存在なのです。

 その歴史は、第一次世界大戦の終結を経て1918年にポーランドが一国家として独立を果たした9年後、同国が誇る作曲家ショパンの作品のみで審査するという、ほかでは見られないユニークなピアノコンクールとして発祥しました。ちなみにポーランドは、大国ロシアやドイツに挟まれている地理的状況もあり、歴史的に大国の領土的野望に振り回され続けてきた国です。18世紀にはロシア、ドイツ、オーストリアに三分割されたのち、ナポレオンの台頭により一時フランスの衛星国のような存在となりますが、その後、1815年にナポレオンのロシア遠征失敗の結果、ロシアの属国となっていました。

 そんなロシア下のポーランドでショパンは1829年に「ピアノ協奏曲第2番」、翌30年3月に「ピアノ協奏曲第1番」を初演します。しかし同年11月2日に突然、祖国を離れてしまうのです。そのわずか20日後にポーランド独立を目指した暴動が起こるのですが、そのときショパンは「二度と祖国の土を踏むことはないだろう」と予想し、すでにオーストリアのウィーンに逃げていました。

 そして、当地で暴動のニュースを聞き、「父の重荷にならないのであれば、すぐワルシャワに帰るのだが」という内容の手紙を、祖国に残っている友人に送っています。ここに多くの歴史学者が抱く疑問があります。なぜ、彼の帰国が父親の重荷になってしまうのでしょうか。

 実は、ショパンには独立運動に関わっている友人がたくさんいました。もしかしたら、ショパンもその一人だったのかもしれませんが、暴動の計画をあらかじめ知っていた友人たちが急遽、ショパンを海外に逃がしたという説があります。翌年には暴動は鎮圧されてしまいますが、そこでショパンが政治犯としてブラックリストに載ってしまったことは容易に想像できるのです。

 その後、ピアニスト兼作曲家として高い名声を得たにもかかわらず、いまだロシア下のポーランドでは政治犯となってしまうので、ポーランドに戻ることはできなかったのかもしれません。実際に生涯、強い望郷の念を持ち続けていたショパンですが、祖国の土地を再び踏むことはありませんでした。

 第一次世界大戦を経て独立を果たしたポーランドにおいて、ショパンがピアノ協奏曲を初演した約100年後、ピアノコンクールというかたちでポーランドの英雄は里帰りを果たしたのです。これが、ショパン・コンクールが単なるピアノのコンクールではなく、ポーランド独立を記念する特別な存在として今もなお、ポーランド人に特別に思われている大きな理由だと思います。

反田恭平さんが表現した新しいショパンの可能性

 ところで、ショパンはポーランドを離れたあと、パリで大人気となり、数々の珠玉のピアノ曲を作曲していますが、ピアノ協奏曲を作曲することはありませんでした。ですから、2曲あるピアノ協奏曲は、ポーランドにいた若きショパンの貴重な作品です。その2曲のなかでも、ポーランドの強い悲しみを表現したような出だしを持った「ピアノ協奏曲第1番」を、反田さんは素晴らしく演奏して見事に第2位を獲得しました。演奏前、指揮者に対して日本人らしく礼儀正しく頭を下げてから始めたのも印象的でした。

 反田さんは、なんと高校3年生の時に日本音楽コンクールに優勝。しかも、本選前にもかかわらず、桐朋学園の学園祭の準備もやり続けていたという破格の人物です。その後、ロシアに留学し、ピアノを弾くだけでなく、欧米のピアニストの体格に負けないように体を鍛えていたというのも、ほかでは聞いたことがありません。高校生時代は、どちらかといえば華奢な体格だった反田さんですが、今回のコンクールでは、がっちりとした体格から日本人離れした力強い音でショパンのピアノ協奏曲を見事に引き切りました。どちらかといえば繊細な演奏のイメージが強いショパンの作品のなか、反田さんの演奏は新しいショパンの可能性を見た気がしました。

 彼はジムで体を鍛えたり、ピアニストの命でもある指の怪我のリスクまで負いながらボクシングジムにまで通っているそうです。彼の留学先でもあるロシアのピアニストは、体格も大きく、僕も何度もロシア人ピアニストと共演していますが、「ピアノが壊れてしまうのではないか」と思うほど大きな音量で、こちらを圧倒してきます。

 小さな音は、訓練さえすれば出すことはできますが、大きな音は生まれ持った体格が必要となります。欧米人に比べて体格が劣る日本人にもかかわらず、そこから逃げることなく、まっすぐに向き合って自分改造をした反田さん。そんな彼が奏でるショパンは、作曲家の若く力強い情熱と繊細な感性の両方を兼ね備えたような、天才的な素晴らしい演奏で、僕も心から感動しました。第4位の小林愛実さんも含めて、早く共演してみたいと思いました。

(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

●オフィシャル・ホームページ
篠﨑靖男オフィシャルサイト
●Facebook
Facebook

ショパンコンクールで51年ぶり快挙…反田恭平さんの日本人離れした力強い音の源のページです。ビジネスジャーナルは、企業、, , , の最新ニュースをビジネスパーソン向けにいち早くお届けします。ビジネスの本音に迫るならビジネスジャーナルへ!