ポーランドの首都ワルシャワで開催されていたショパン国際ピアノコンクールで、反田恭平さんが2位、小林愛実さんが4位に入賞した。今回のショパンコンクールでは、日本人初の優勝者が出るのではという期待があって、予選から配信動画をできる限りライブで視聴していたのだが、反田さんの演奏は叙情的で美しく、聴衆に何を伝えたいかもはっきりしていた。また、ファイナルで弾いたピアノ協奏曲では、オーケストラと息がぴったり合っていて、一体感が素晴らしかった。
一方、小林さんは、第2次予選で弾いたバラードやポロネーズ、第3次予選で弾いたマズルカやプレリュードで、寂寥感や絶望感、悲哀といったショパンの影の部分を見事に表現していて、非常に強い感銘を受けた。ショパンの影の部分を弾きこなしたという点では、今回の出場者のなかでピカイチといっても過言ではない。
ショパンの曲はいずれも美しく華やかであるがゆえに、影の部分が忘れられがちだが、その人生は悲哀に満ちていた。ワルシャワで生まれ、パリに出て、サロンピアニストとして人気を博し、社交界の寵児としてもてはやされた一方、20代で肺結核を発病し、喀血を繰り返した。また、ひどい神経亢進症にも悩まされ、砂糖やシロップに混ぜたアヘンをしばしば服用した。
つまり、若い頃から病魔と闘い、死神の影におびえていた。大作が少なく、小品が圧倒的に多いのは、体力的な限界によるのかもしれない。39歳で亡くなっていることから、ピアノソナタ第2番、第3楽章の有名な葬送行進曲は自分自身の葬儀のために作曲したのではないかと疑いたくなる(ちなみに、この曲は、反田さんが第3次予選で弾いて、とても美しかった)。
それだけではない。ポーランドを離れた後も、死ぬまで祖国への熱い思いを持ち続けていたが、それが叶うことはなかった。もしかしたら、ワルシャワ革命の直前に祖国を捨てたことへの罪悪感が帰国を阻んだのかもしれない。もちろん、革命が敗北したことによる絶望感は、作曲の大きな原動力になったはずだ。
さらに、社交界で絶大な人気を誇ったショパンは、女性関係が華やかそうな印象を与えるが、体の弱さが原因で破局したこともある。女流作家ジョルジュ・サンドとの恋愛でも有名だが、9年間同棲した末に破局している。サンドとの別離後は一文無しになってしまい、経済的にも苦しかったようだ。
このように、ショパンの人生を振り返ると、影の部分が少なからずあり、それが作品に大きな影響を与えているように見える。それを見事に弾き切ったという点で、小林さんの演奏は素晴らしかった。もちろん、反田さんをはじめとする他のピアニストが影の部分を表現できなかったというわけではない。ショパンの影の部分を表現するという点で、小林さんの演奏が図抜けていたというだけの話である。
悲哀こそ芸術の神髄
私が小林さんを高く評価するのは、悲哀こそ優れた芸術作品を生み出すからだ。『幸福な王子』『サロメ』などで有名な19世紀のイギリスの作家、オスカー・ワイルドは、同性愛のかどで投獄されたのだが、牢獄から同性愛の相手にあてて書いた書簡集である『獄中記』の中で次のように述べている。
「私は悲哀が人間の感得しうる最高の情緒であるので、それが、あらゆる偉大なる芸術の典型であり、同時に試金石でもあることを、いまにして知った」
これは名言だ。ある作品が、ただ美しいだけでなく、心の糧となるだけの深みをそなえているか否かは、作者がどれだけ身体的・精神的な苦悩を経験したか、どれだけ不幸な体験をしたかによるところが大きい。この点で、ショパンは短い人生でありながら十分すぎるほど悲哀を味わったといえる。この悲哀を見事に表現した小林さん、そして光と影のコントラストを美しく弾きこなした反田さんに心から「ブラボー」と叫びたい。
ショパンコンクールは幕を閉じた。だが、ここからが本当の始まりだ。今回のコンクールの審査員を務めたワルシャワ音楽大学の教授、ピオトル・パレチニ氏は、インタビューで次のように話している。
「たとえコンクールで良い結果が出なくても、一部のピアニストはのちに成功することになると思います。優勝だけが重要な目標ではありません。本当のコンクールは、結果が出たその翌日からスタートする。それは、優勝したとしても同じです。コンクール後も長年にわたり芸術的に最高レベルの演奏を保つことは、入賞するよりもずっと難しいのです。コンクールの真の結果は時の流れによって決められ、私たちはその結果を何年もあとに知ることになります」( https://ontomo-mag.com/article/interview/chopin-piano-competition02/ )
実に名言だと思う。コンクールで優勝しても、上位入賞しても、その後鳴かず飛ばずのピアニストはいくらでもいる。逆に、コンクールでは良い成績を残せなくても、その後活躍したピアニストも少なくない。ちなみに、パレチニ氏は反田さんのお師匠さんらしい。実に素晴らしい先生についていると思う。
パレチニ氏の言葉通り、今日が始まりだと思って、これからも研鑽を積んでほしい。いずれ、「時の流れ」が反田さんも小林さんも優れたピアニストだと証明してくれることを切に祈る。
最後に、みなさん、クラシックのコンサートに行ってください。日本にはこんなに素晴らしいピアニストがいるのです。とくに知識は必要ありません。音楽は、耳で聴き、魂で感じればいいのですから。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
三枝成彰『大作曲家たちの履歴書(上)』中公文庫
オスカー・ワイルド『獄中記』田部重治訳 角川文庫ソフィア