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北白川宮能久親王(きたしらかわのみや・よしひさしんのう)の生涯は異色だった。
能久は、明治天皇6女の昌子内親王(常宮/つねのみや)と結婚した竹田宮恒久王(たけだのみや・つねひさおう)と、7女の房子内親王(周宮/かねのみや)と結婚した北白川宮成久王(なるひさおう)の実父である。輪王寺宮公現(りんのうじのみや・こうげん)と呼ばれていた幕末に幕府側に担がれて、会津若松に逃れ、官軍に対抗する奥羽越列藩同盟の盟主にされた。この盟主就任にあたり、1868(慶応4)年6月16日を大政元年と改元し、公現を「東武(とうぶ)天皇」とする案もあったという。公現自身、自分を「今上の叔父」(公現は120代仁孝天皇の猶子(ゆうし/養子)なので、明治天皇の叔父にあたる)と、天皇たる正統性を各国公使に伝えてもいた。
しかし1868(明治元)年、旧幕府勢力は官軍に敗北し、公現は京都の伏見宮本家に「御預」(おあずけ)となり、仁孝天皇猶子の身分や、輪王寺宮などの宮号を剥奪され、翌1869年に伏見宮に復して能久王(親王ではない)となった。その後、プロシアへの留学を命ぜられ、年金5000円を授かった。はじめワシントンで米国大統領グラントと会い、ベルリンに向かった。この間、1872年に北白川宮を継いでいた弟の智成(さとなり)が夭逝し、兄である能久が北白川宮家を継いだ。1874年にはドイツ皇帝、皇后、皇太子に謁見するなど、ドイツの皇族・貴族や各国王家との交際を深め、日本政府へ年金の増額を求めた。しかし、政府が年内帰国を促したので、能久は自費による留学延長を請願した。が、これも拒否され、いったん帰国するよう命ぜられた。
