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江川紹子の「事件ウオッチ」第196回

【江川紹子が語る東大前刺傷事件】岸田首相も東大受験失敗組…諦め体験を語ることの重要性

文=江川紹子/ジャーナリスト
東大
1月15日にみずからが起こした事件について少年は、「医者になるために東大を目指してきた」と供述しているというが、なぜ東大に執着したのか……。

 オミクロン株の感染拡大だけでも大変なのに、トンガの海底火山の噴火に伴う津波の影響も受け、今年の大学受験生は試練が多い。そのうえ東京大学会場では、大学入学共通テストの初日に、受験生2人と近所の男性(72)が正門前で刃物で切りつけられる事件まで起きた。

 ただ、この事件は不幸中の幸いで、受験生2人のけがは重くはなく、男性も重傷を負ったものの命に別状はなかった。最悪の事態に至らなかったことは、被害者はもちろん、事件を引き起こした少年のためにも、本当によかった。命を奪ってしまったら、後でどんなに悔いても謝っても、償いきれるものではない。受験生の1人は追試験に臨むと報じられた。実力が発揮できるよう、祈っている。

少年が供述した「人を殺して罪悪感を背負って切腹しようと考えた」という不可解な犯行理由

 報道によれば、殺人未遂で逮捕された名古屋市内の私立高校2年生男子A(17)は、包丁のほか、果物ナイフやのこぎり、さらには可燃性の液体を入れた火炎瓶のようなビンを何本も用意し、刺傷事件を起こす前に、地下鉄車内や駅構内で放火を試みた、という。刃物での攻撃と鉄道での放火がセットになっているところからは、小田急線や京王線の車内での刺傷事件の影響がうかがえる。

 それにしても、彼はなぜ、自分の人生をフイにしかねない事件を起こしたのだろうか。

「医者になるために東大を目指してきたが、約1年前から成績が上がらず、自信をなくしてしまった」「人を殺して罪悪感を背負って切腹しようと考えた」

 逮捕直後のこの供述は広く報道されたが、唐突感が否めない。成績が上がらない悩みと放火や殺人という突飛で凶悪な行動の間には飛躍がありすぎるからだ。医者になりたければ、医学部のある大学はたくさんあるではないか。社会的に評価される研究をしているのは、何も東大だけではない。iPS細胞の作製でノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥氏は神戸大学の出身だし、がん治療薬「オプジーボ」の開発につながったがん免疫療法の発展に貢献した本庶佑氏は京都大学の卒業だ。

 かつて、父親から医師になることを強要され、暴力を受けながら勉強を強いられていた奈良県の少年が自宅に放火した事件があった(2006年、奈良自宅放火母子3人殺人事件)。しかし、今回のA少年の周辺を取材したいくつかの記事を読んでも、親が東大進学を強要したり、子どもに過度な期待をかけたりするような家庭ではなかったようだ。

 また、A少年が通っていた高校は、東大合格者も多く輩出する進学校ではあったが、事件後に発表したコメントなどからは、教師たちが東大合格を絶対視して、生徒を競争に駆り立てているようにも思えない。

 にもかかわらず、なぜ彼は東大を絶対視する、旧来型の「学歴信仰」にとりつかれてしまったのか。そこがよくわからない。

 もっとも進学校には、私のような普通の公立学校出身者にはわからない、特有の雰囲気や事情もあるらしい。

名門・開成高校出身ながら3度も東大受験に失敗、結局“諦めた”岸田文雄首相

「少年の気持ちはわからないでもない」――そう語る墨田区議会議員の佐藤篤さんは、中高一貫の進学校で、東大合格者が多いことで知られる麻布高校の出身だ。

「東大を受験するとか、医学部を受けるとか、まわりにはそういう生徒が多くて、それが当たり前になっていた」

 佐藤さんも、当然のように東大を志望した。夢は政治家。中学2年生の時に、麻布高校の先輩の橋本龍太郎氏が首相となり、母校で講演を行ったのがきっかけだった。講演を聞いて大いに刺激を受けた佐藤さんは、「政治家になって社会の矛盾や理不尽を正したい」と思うようになった。

 法律や政治を学ぶために、東大法学部を目指すこととした。法学部への登竜門である文科一類は、文化系で最も偏差値が高い超難関。佐藤さんは現役で東大を受験したが失敗。1年浪人し、勉強漬けの日々を送った後の2回目は、センター試験に失敗し、いわゆる「足切り」の対象となった。2次試験まで進めば、模擬試験で全国上位をとった論文の科目もあったのだが、その力を発揮する機会が失われた。

「落胆しました。本当にがっかりした」と佐藤さん。今になって振り返れば、受験の失敗も人生の出来事のひとつとして受け止められ、自分の糧となったと考えられるが、当時はとてもそんな余裕はなかった。

「その時は、受験が人生のすべて、ですから。この頃の自分を思い起こすと、事件を起こした少年の気持ちはわからないではないんです。私の場合は、人を殺めようとか、自殺しようとまでは思いませんでしたが、『自分はもう終わった』『(この世から)消えてなくなってしまいたい』という感情に支配されていた。視野が狭かったんでしょう。でも、受験に失敗してそんな気持ちになる人は、結構多いのではないかな」

 A少年も、東大受験が当たり前のような環境のなかで、自分の成績が合格圏から外れているのを知って、自分の人生が終わったような気持ちになり、それがどんどん煮詰まっていったのだろうか。

 佐藤さんの場合、気持ちが煮詰まる前に、親友のこんな言葉が視野を広げてくれた、という。

「お前の夢は東大だったのか? 大学は、あくまで通過点だろう? 法律や政治を勉強するためだろう? 政治家になりたい、というお前の夢は、東大に落ちたからといって、揺らぐことはないんじゃないか」

 これを聞いて、佐藤さんは「ここで腐っていてはダメだ」と思い直した。

「親友は、私のプライドを傷つけないよう言葉を選びながら、東大がすべてのような価値観から解き放ってくれた。これは、友だちの言葉だったからよかったんだと思います。親から同じことを言われていたら、たぶん反発していた。学校の先生に言われても、心に響かなかったと思います」

 その後、佐藤さんは、早稲田大学政治経済学部に進学。2011年に、最年少の25歳で墨田区議に初当選し、政治家になる夢を実現した。2019年の選挙ではトップ当選を果たし、現在3期目だ。家庭では2児に恵まれている。

 佐藤さんは、A少年や受験生たちに、こう語りかける。

「今、私はとても幸せです。(不合格の)心の傷も時が解決する。受験がうまくいかなくても、幸せに生きられる、と知ってほしい。岸田(文雄)首相も、東大受験に3回も失敗したじゃないですか」

 岸田氏は、やはり東大合格者が多いことで有名な開成高校の出身。しかも、父親も叔父も叔母の夫もいとこも、東大から官僚に進んでおり、男は東大に進むのが当たり前、という家庭に育った。著書『岸田ビジョン 分断から協調へ』(講談社+α新書)によれば、岸田氏の親族や先輩、友人は、趣味を持ち、運動にも励み、勉強だけに集中していたわけではないのに、次々に合格していた。

「みんな東大だから」自分も入れるはず、と思っていたのに、合格発表の掲示板に自分の名前がない。その時の心境を、岸田氏は同書のなかで次のように綴っている。

〈一度目は東大のある本郷三丁目駅から自宅まで、なぜだろう、という思いが頭の中に渦巻き、どうやって帰宅したのかも覚えていないほどでした。二度目の失敗では、自分の人生について、俺に価値はあるのか、などと答えの出ない問いに煩悶しながら帰宅したような気がします。しかし、三度目の失敗の時は「これでやっと終われる」とむしろほっとしていました。「仕方ない。東大とは縁がなかった」と割り切っていたのかもしれません〉

 そして岸田氏は、早稲田大学法学部に進学。3度の東大受験失敗に、父親は落胆したようだったが、それを表に出さず、「早稲田でよい友だちをつくって見聞を広めろ」と励ましてくれた、という。

 東大に3度落ち、2020年の総裁選にも大敗し、一度は「岸田は終わった」とまで言われた同氏が、日本の権力構造のトップである内閣総理大臣に選出されたのは昨年10月。A少年は、この時のニュースをどう聞いたのだろうか。

未来を切り開く「勇気を出して諦める」という体験を語ることの重要性

 もっとも、少年の供述で伝えられているのは、今のところ逮捕された直後の供述だけだ。この時は、彼の気持ちもおそらく混乱していただろうし、事件に至るまでには、もっといろんなことがあったに違いない。彼が時間をかけて気持ちを整理し、捜査や家庭裁判所の調査が行われる中で、経緯が明らかになるのを待ちたい。

 被疑者が少年であるため、どの程度の事実が公表されるかはわからない。ただ、本人特定につながらない情報は、可能な限り明らかにしてほしい、と思う。真偽不明の情報が飛び交うなかでは、むしろ正確な情報を出したほうが、当人や家族の名誉や生活を守り、立ち直りに資する場合もある。また、周囲の大人たちが、どこでどのように対応すれば事件を防ぐことができたのかを省みるよすがにもなる。

 いずれにしても、大学受験は人生の通過点のひとつだ。このことは、声を大にしていいたい。志望する大学に合格すれば、もちろんめでたい。しかし、結果がうまくいかなくても、前述の佐藤さんや岸田首相の例が示すように、その先の夢が絶たれるわけではない。

 もっといえば、今の夢にこだわる必要もない。やむなく進んだ先で、思わぬ出会いがあり、夢を変更することは大いにあり、なのだ。そのことを、若者たちにはぜひわかってほしい。

 私は以前から、日本の教育の場やメディアが、子どもたちに向けて「夢を諦めなければかなう」というメッセージを出しすぎているように思ってきた。オリンピック・パラリンピック選手など、さまざまな困難に打ち勝ち、夢を追い続けて、それをかなえた人たちの努力は、本当に尊い。けれども、その夢に到達できず、途中で諦めて方向転換した人の決断や勇気も、また同じように尊いのだ。

 そもそも「諦める」の語源は「明らむ」、すなわち「物事の道理を明らかにする」だ。周囲の環境や自分自身を見つめ、現実と将来を考察し、それで明らかになったことを踏まえて判断する。それが「諦める」だ。

「諦めない」で成功に至った例ばかりではなく、未来を切り開く「諦め」の体験も、もっと子どもたちに伝えたほうがいいのではないか。今回の事件で、改めてそう思った。

(文=江川紹子/ジャーナリスト)

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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