「週刊ダイヤモンド」(ダイヤモンド社/8月25日号)。
シャープの経営にほころびが見え始めたのは2010年頃だった。その頃突如、シャープは片山幹雄社長(当時)宅への新聞記者への夜討ち朝駆け取材を禁止した。夜討ち朝駆け取材とは、役員の自宅に出かけて非公式取材をすることである。
社長宅への直接取材禁止の代わりに、A副社長(現在は退任)が1週間に1回、記者懇談会を開くことになった。実はこの背景には、経営内部の権力闘争があったのである。その構図は次のようになる。
片山社長は07年に49歳でトップに就任し、「シャープのエース」といわれた。ところが、片山氏を支えて脇を固めるべき、重責を担っていたA副社長が裏切った。A氏は片山氏よりも年長で、若い片山氏を小ばかにして、同氏に情報が流れないようにして孤立させることを画策したのが、記者懇談会の設置なのである。
夜討ち朝駆け取材を受ける側には、記者の質問を聞くことで、世間が自社の何に注目しているのか、あるいは自分の知らない下々の社内情報といったものが入ってきたりする。記者との接点を「広聴」ととらえて、大事にしている経営者もいる。だから取材対象に食い込むと、夜討ち朝駆けが記者と経営者の情報交換のような場になるケースもある。そこで片山氏と記者との接点を断とうと、A副社長は考えた。
マスコミ対応は、A副社長が週1回のオフレコ懇談会を開いてすべて仕切る。メディアが何に関心をもっているか、その情報を社長に上げず、情報管理一元化の号令の下、A副社長がすべての情報を独占するようになった。そして、若い片山氏はA副社長に遠慮しがちであった。
A副社長は当初、メディアを牛耳ることで自分の存在感を示すと同時に、片山氏に恥をかかせようと考えたようだ。それまでならサラリーマン社会にありがちな「男の嫉妬」の類の話で済んだが、徐々にエスカレートし、A副社長は、片山氏が早期に失脚すれば、社長の座は自分のところに転がり込むのではないかと感じ始めた。A副社長と片山社長の間に隙間風が吹き始めた。
町田前会長―A副社長ライン
シャープの実力者である町田勝彦会長(当時、現在は相談役)も、A副社長を評価していたため、社内にも「副社長のバックには町田さんがついている」と感じ、社長を軽視する動きが出始めた。シャープでは片山社長を抜かして「町田―A副社長」という一つのラインができた。こうした背景があり、町田会長と片山社長の不仲説が社内外で指摘されるようになった。社長を中心に意思決定はなされるべきであり、対外的にもそのように説明されていたのに、実態は社外からは見えづらい別の意思決定のラインが完成した。
断っておくが、筆者は片山氏を擁護しているわけではない。今のような状況にシャープが追い込まれた直接的な要因は、片山氏の堺工場への過剰投資や社内をまとめ切れなかったリーダーシップ欠如という点にある。社長であった以上、いかなる理由があれ、その責任は重いはずだ。
シャープ内で権力闘争が行われていた頃には、すでに電機業界では韓国サムスン電子の台頭、新興国市場の拡大、スマートフォンやタブレット端末といった新しい商品の出現といったように、業界が大きく変化していた。しかし、シャープは「内向きの理論」で会社が動くようになり、世間や市場と真摯に向き合い、時代を見据えた新しい商品や価値を生み出すことができる会社ではなくなった。
北朝鮮のような企業
10年頃に会ったシャープの幹部は、「うちは北朝鮮みたいな企業になった。上司が間違ったことをやっても、誰も意見を具申しない。物言えば唇寒しといった風土の中で、良い製品ができるわけがない」と話していた。
製造工程などをブラックボックス化する垂直統合戦略の「亀山モデル」が間違っていたとは筆者は思わない。「亀山モデル」で一世を風靡したことは確かであり、その亀山工場で生産する液晶テレビ「アクオス」がシャープの企業価値を高めていたことも否定できまい。むしろ、環境の変化に合わせた「亀山モデル」に続く新しい事業モデルを構築できなかったことにシャープの「敗因」があり、それを生み出した大きな原因が内部の確執であるということに問題は尽きる。
トヨタ自動車の業績が落ちた真の要因も、利益の大半を稼ぎ出していた北米市場がリーマンショックによって崩壊したからではなく、北米依存に安住して新しいビジネスモデルを構築できなかったからである。そして、業績が落ちたところに、大量リコール問題が発生し、その対応策を誤ったのも、シャープと同様に社内が豊田家の顔色をうかがったり、前社長派と新社長派の「暗闘」が起こったりして「内向きの理論」が優先されたからである。その頃、トヨタ社内ではよく「うちの会社は正論を言う人間が排除される会社になった」と愚痴交じりに語られていた。
(文=井上久男/ジャーナリスト)