ある銀行員は言う。
「3月末から4月はじめは、忙しくて大変なんです」
銀行といえば、朝早くから夜遅くまで働くハードワークで知られる。さぞかし、仕事で忙殺されているのだろうと思いきや、それだけではなかった。
「前の支店長が転勤になり送別会が終わったかと思えば、次は新支店長の歓迎会です。支店長ともなれば、大きなケーキが用意されます。支店で働く私たちにとっては、もっとも大切な行事なんです」
実は、この「お祝いごと」に沸いていたのは、大阪・堺にあるみずほ銀行の支店。堺といえば、シャープの運命を決めた因縁の土地である。いうまでもなく、戦艦大和よろしく、不沈の「戦略兵器」として建設された大規模な液晶パネルコンビナートが、暗い影を落としている地である。下手をすれば、「平成の軍艦島」になりかねない。
60インチ型以上の大型パネルを効率良く生産できる最先端の液晶コンビナートが竣工したとき、同社の経営者だけでなく従業員も期待に胸を膨らませていた。誰もが「大きく羽ばたくシャープ」を疑わなかった。ところが、リーマンショック後の消費低迷によりテレビが売れなくなり、液晶パネルの需要は激減して在庫の山となった。さらに、台湾、韓国メーカーの追い上げにより、価格競争の波に飲み込まれていった。
その近所にあるメインバンクの支店で、「支店の一大イベント」を催し、祝杯をあげていたのだから皮肉である。その後、「お客さんからシャープのことについて聞かれたら、『何も知りません、と言っておくように』と緘口令が敷かれた」という。4月下旬、次のように報道されたからだ。
「みずほ銀行と三菱東京UFJ銀行は、それぞれ1000億円、総額2000億円の金融支援を行うことを内定した。融資額を優先株に転換するデット・エクイティ・スワップ(DES)と呼ばれる方法で行う」
液晶テレビ事業の開花
ここで、銀行の守秘義務の対象になってしまったシャープの栄枯盛衰を復習しておこう。
かつてシャープは、国内テレビ市場で松下電器産業(現パナソニック)、ソニーに続く東芝と「万年3位」の座を競い合ってきた。シャープはブラウン管を持っていなかったため、販売したいときに増産できず商機を逃してきた苦い経験から、キーデバイス(基幹部品)の強化に取り組んできた。その結果生まれたのが液晶だった。最終的な目標は、テレビのキーデバイスとして液晶を使い、ブラウン管テレビ時代の雪辱を果たすことだった。ブラウン管並みの画質にするまでには長い年月を要した。だが、町田勝彦氏が社長に就任し、大きな転機を迎える。