業界順位に意味はあるのか?正社員は特別、と考える日本の異常さ、世界市場での衰退招く
翻って、日本の企業を取り巻く状況に目を向けると、日本国内には高齢者関連、特に高齢者向けの医療・介護とアジア人頼みの限定的な観光関連業以外に成長の可能性のある市場は見当たらない。
企業は合理的な存在であるので、大企業に限らず成長を志向する多くの日本企業は、海外市場に目を向け自らグローバル化した不確実性が高い経営環境に身を置き、その適応を通してマネジメントも含めて大きく企業体質を転換していくことになるであろう。この転換は企業ごとに異なるはずであるし、異なるべきである。その中に、日本市場にとどまるという選択肢も含め、多岐にわたる生き残りの形態が考えられるが、領域によって日本型組織の特徴が維持できる程度は異なる。
つまり、日本型組織としてクルマづくりに固執しているトヨタ自動車、日本型にもはや固執していない日産自動車、クルマづくりに必ずしも固執しない本田技研工業が業界の1位、2位、3位ということは大きな意味を持たなくなっているという状況が、他の業種でも当たり前のようになるであろう。そもそも、業界何位という仲間・横並びの認識は機能しなくなる。
●「変える意志と変わる勇気」と「変わらない選択と変えない忍耐」
日本企業のトップマネジメントには、「変える意志と変わる勇気」と「変わらない選択と変えない忍耐」の違いを理解し、現場力(日本企業の得意とするプロセス主導の迅速なインプリメンテーション力<意思決定より実行が優位のこと>)を口実に決断を避けるのではなく、果敢な経営判断をすることが求められる。つまり、環境変化の程度と速度は高まると思うべきであり、独哲学者フリードリヒ・ニーチェの言ではないが、「脱皮をしない蛇は死ぬ」と心得るべきであろう。しかし、制度変更ではなくプロセスの変化を通して漸次に変わっていくことを得意とする日本型企業にとって、加速的にグローバル化する経営環境の中での脱皮は時間との勝負となる。不確実な環境下での決断に当たっては、下記の観点を考慮する必要があろう。
・価値がハードからソフトに急激にシフトしていく。
・企業の規模の重要性が急速に薄れていくので、大企業だから有利とはいえない。
・組織として環境適応を阻む積極的惰性から脱し、脱学習を試みることが重要になる。
・速いスピードで大きく変化する経営環境に対応するには、組織は多様化(Diversity)していかなければならない。
・グローバル化の過程で、これまでの「既存の社員は変更の例外」「日本人は特別」は通用しない。
「変える意志と変わる勇気」を持つか「変わらない選択と変えない忍耐」を受け入れるかという決断の過程を通して、これまでの業界何位という群れ的な感覚から脱し、ユニークな企業アイデンティティの再構築が求められる。
この決断は、企業の規模によって当然異なってくる。大企業にとっては、環境変化への迅速な適応を阻む、強い積極的惰性をいかに克服するかが問われるが、その先の適応のあり方は、企業次第であろう。例えば、以下のような企業が考えられる。
・周辺事業の人材をトップマネジメントにすえて外科手術を行う企業。
・中心事業の若手を抜擢し内科手術を行う企業。
・トップマネジメントに外国人を起用し、組織の遺伝子組み換えを行う企業。
・リスクを取って川から海洋に出て、淡水から海水に適応するように組織を転換し、成長するサクラマスのような企業。
・日本市場の勝者として川に残りガラパゴス的進化を遂げるヤマメのような企業。
・グローバル化に挑戦するが失敗し、日本に戻るシーラカンスのような企業。
・かつての捕食者から捕食される側にまわり、環境の悪い深海に潜り、組織永続を図るオウムガイのような企業。
・超長期にわたり大きく変化しない生息領域に棲まい、安定的に存続するカブトガニのような企業。
ほかにもYKKのように、はるか昔に適応してしまった企業もあるが、それは極めて例外であろう。
従来の中小企業に関しては、「日本的経営を残したいか」との自問と、残せるかの見極めが必要となるであろう。キッコーマンの茂木友三郎名誉会長も述べているが、グローバル化には「誰にも負けない」というグローバルニッチ的技術優位性が必要である。
新興のベンチャー企業は、日本を最初から念頭には置いていないであろう。フィールドはグローバルであり、すでに多くの外国人を抱えている企業も多い。情報通信技術のレバレッジを使わず日本市場にこだわっているようでは大きな成功は収められない。
●グローバル化が難しい日本人のメンタリティ
このような企業の合理的な選択として、日本企業が真にグローバル化を達成した場合、それを「日本の」企業という枠組みに収める考え方は正しくない。
日本型組織の特徴は日本の文化に根差して生まれたものであるが、グローバル環境においてそれらが取り入れられるとすれば、利便性のある手法、技法、技術、制度などの文明の要素として受容されるのであり、背後にある思想や規範は取り除かれる。異論のある方もいるかもしれないが、日本の歴史はまさにこの典型的な例であることを忘れてはならない。
つまり、フォーマット(型)として受け入れられるのであり、その受容を通してフォーマットの中身は変容すると心得なければならない。企業においても、韓国や中国の消費者が、和式キムチや日式拉麺を認めたり、日本の消費者がカリフォルニアロールやサーモン寿司を外道といわず、積極的に受け入れている現状を見習う必要があろう。つまり、文化は一つの変わらぬものがあるという排他的な心理的本質主義的観点ではなく、新奇性を吸収し、常に変化していくものであるとする排他的ではない構築主義的観点を持つことがグローバル化を強く志向する企業にとって重要となる。
グローバル化の時代とは、外部の影響や内部の異分子の影響(多様性)で文化が変容していく可能性の大きい時代なのである。日本の企業がグローバル化を目指す過程で、その組織体質が自ずと変容し、客観的に見れば出自とは異なったものになるとすると、それを日本の企業と一括りに呼ぶことは適切ではないのである。
しかし、無意識に「日本人」という境界を設定する日本人のメンタリティで組織的にグローバル化するのは、かなり難しいことも事実である。実際、日本人は海外のものを受け入れる際には、自分たちに合わせるべく変更を加えるのに、海外の人が日本のものを変更することは許容しない傾向にある。フランスでは日本人のシェフやパティシエが受け入れられているが、白人や黒人の板前や和菓子職人を日本人は受けいれられるのかといえば疑問である。日本人は、自分たちがやっていることが外からどう見えるかという意識が欠落しており、加えて自分たちは例外であると思っている節がある。かつてのように日本が世界に対して門を閉ざしていた時代ではないので、意識と現状のギャップがどんどん拡大しているといえるだろう。このような日本人の姿勢を変えないと、グローバル環境下での日本企業の強さを問うても意味がないといえそうでもある。しかし、生き残るためには急速に変わらざるを得ないことを理解し、変身する合理的な存在である企業はもはや日本人の姿勢の変化を待たないかもしれない。つまり、意識の変わらない日本人は置いていかれるのである。
筆者が読者諸兄に対していえることは、「Do not fool yourself, let’s face the reality(馬鹿なことをしないで、現実を直視しよう)」である。個人はもちろん、合理的存在とはいえ、現実を見ることからしか企業にとっての生き残りの解は見えてこないのである。
(文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授)