超売れっ子作曲家・ストラヴィンスキー、なぜ極貧だった?不幸なクラシック音楽家の金銭事情
「もう少し作曲料を上げてもらえないだろうか? 昨日の夜は、一晩中そのことを考えて眠れなかった」
ロシア人作曲家、ストラヴィンスキーがイタリア・ヴェネツィアに滞在していた時の話です。交渉の相手は新曲の依頼主。有名なストラヴィンスキーに作曲してもらうため、少しだけならばと作曲料の上乗せに同意したところ、ストラヴィンスキーは満面の笑み。
「今日はとても嬉しい日なので、夕食をごちそうするよ」と、仲間たちをレストランに連れて行き、高級ワインもどんどん開けて大騒ぎ。勘定の際に気が付くと、作曲料の上乗せ金額よりもはるかに高い請求書でしたが、ストラヴィンスキーは上機嫌だったそうです。
ストラヴィンスキーは、20世紀を代表する超売れっ子作曲家だったにもかかわらず、お金に困っていたことが知られています。それは、第一次世界大戦の影響で、ロシアから収入を得られなくなりスイスに移住。その後、フランスの国籍を取ったものの、第二次世界大戦前には、新しい音楽を好まないヒットラー率いるドイツ・ナチス政権から“退廃音楽”とレッテルを貼られ、逃げるように新天地アメリカに移住しなくてはならなかったことが原因でした。ちなみに、ナチス政権は、ヨーロッパの白人であるアーリア系を優位に立つ民族としていたので、黒人がつくったジャズも退廃音楽に指定していました。皮肉なことに、アメリカに移住したストラヴィンスキーはジャズクラブにはまり、その後、ジャズの影響を受けた名作をたくさん書いたのです。
2度の大戦によって作曲家としての人生を大きく変えられてしまったストラヴィンスキーですが、20世紀の音楽を変えたともいわれる代表作『春の祭典』で大成功を収め、著作権収入だけで悠々自適な生活を送れたはずでした。特に、若きロシア時代に彼の名前を世界に知らしめた出世作のバレエ音楽『火の鳥』は大人気で、そのバレエ公演を鑑賞していた漫画家の手塚治虫氏が火の鳥を踊るバレリーナに魅せられ、名作漫画『火の鳥』を書くきっかけになったことでも有名な作品です。この1時間近くかかるバレエ音楽から7曲を取り出して演奏時間を20分程度とし、楽器の数も減らして演奏しやすくした『火の鳥』組曲は、ヨーロッパに住んでいた当時のストラヴィンスキーにとってはドル箱でした。しかし、その後の移住先のアメリカではそのドルを稼げなかったのです。
実は、当時は著作権の権利がかなりいい加減だったらしく、特にアメリカでは“亡命ロシア人”という扱いで、それまで作曲していた作品の著作権が保障されていませんでした。つまり、それまでせっせとヨーロッパ内で出版した作品からは収入を得られなくなりました。
そこでお金に困ったストラヴィンスキーは、曲数を7曲から12曲に増やし、楽譜に少し手を入れることにより新たな『火の鳥』組曲を出版し、著作権を得る手段にしたのは有名な話です。これが「1945年版組曲」と呼ばれているもので、現在では、あまり演奏機会があるとはいえませんが、ストラヴィンスキーの音楽のすばらしさに変わりはありません。