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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

クラシックオーケストラの奏者、観客は知らない過酷な“肉体酷使”事情

文=篠崎靖男/指揮者
クラシックオーケストラの奏者、観客は知らない過酷な“肉体酷使”事情の画像1
「Getty Images」より

 フランスを代表する作曲家モーリス・ラヴェルの代表作『ボレロ』という作品をご存じでしょうか。1928年に初演されたバレエ音楽ですが、読者の皆様のなかには『愛と悲しみのボレロ』というフランス映画のタイトルを思い出される方もいらっしゃるかもしれません。実は、この名作映画のボレロです。現在では、バレエのために演奏されるよりも、オーケストラが単独で演奏することのほうがはるかに多いオーケストラコンサートの人気曲です。それほどまでに、とても魅力ある音楽なのです。

「ボレロなんて聴いたことがない」という方でも、おそらく、テレビやラジオを通じて、どこかで耳にしているはずです。16分もかかる長い音楽ですが、ほかにない特徴は、能天気で天真爛漫なメロディーと、ノスタルジックで奥に情熱を秘めているような2種類の短いメロディーのみでできていることです。ここでピンとくる方がいれば、かなりスペイン好きな方でしょう。そうです、この2つの要素はスペイン芸術独特の2面性です。実は、ボレロというのは、もともとはスペインの音楽なのです。たった2種類の短いメロディーを毎回違う楽器で演奏することによって、オーケストラ楽器の魅力のすべてを楽しませるというラヴェルの天才性が、今もなお専門家を驚嘆させているのです。

 この曲には、もうひとつの重要な要素があります。それは、スネアドラム、つまり小太鼓が6秒くらいの同じボレロのリズムを、最初から最後まで繰り返すことです。

 曲の始まりは、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな音量で、ボレロのリズムを小太鼓が叩き始めます。次第にボリュームを増しながら16分叩き続け、最後にはオーケストラ全体に対抗するくらい大きな音量になります。

 ボレロのリズムは24個の音符からできており、最初から最後まで数えてみると、合計8210回叩くことになります。リハーサルや当日のホールリハーサルを含めれば3万回以上叩くわけで、もちろん精神的にも大変なわけですが、友人の打楽器奏者に聞いてみると、腕だけでなく体全体にも大きな負担を強いられるようです。特に、腰や背中に負担が大きいとのことです。少しでもそんな負担を減らそうと、座る椅子には細心の注意を払うのはもちろん、小太鼓を叩くバチも削ったり短くするなど打楽器奏者は工夫をしているそうですが、実は大きな音よりも曲の出だしの小さな音量で叩くことこそが大変なのです。

 すべての観客は、有名なボレロの小太鼓に耳を集中させているわけで、世界中のどんな奏者でも真っ青になる瞬間。たったひとつでも手が震えて音が出なかったり、うっかり強く叩いてしまったら、その後の16分間をいくら上手く叩けても、「失敗」となってしまいます。しかも、曲が長いだけに自然と体も硬直してくるそうで、そのために姿勢が悪くなってしまうと、首にも負担がかかるようです。

精神も肉体も酷使

 オーケストラで演奏することは、精神的な面だけでなく、大変な体力を使います。特に管楽器は、実際に息を吹き込んで音を出すので体全体が楽器ともいえます。しかも、管楽器奏者は楽器を演奏するために、まずは息を吸い、音を出すために吐き出しているのですが、それと同時に、生物として生きていくための呼吸もしなくてはなりません。そのために、体は自然と古い空気を一気に吐き出し、新鮮な空気を取り入れようとするわけですが、この生理的な呼吸とのせめぎ合いになるのです。特にとても長い音を演奏するためには、一度吸いこんだ息をゆっくりと吐き続けなくてはならず、かなりの鍛錬が必要となり、体にも負担をかけます。そんなわけで、管楽器奏者の背中を見れば一目瞭然、しっかりと筋肉がついています。

 では、弦楽器はどうかといえば、これもまた大変です。というのは、オーケストラの弦楽器は、曲のほとんどを弾き続けています。実は、管楽器や打楽器には、結構休みがあるのです。特に、オペラなどは大変で、曲が長いことで有名なワーグナーの作品『ニュルンベルクの名歌手たち』は5時間半の大作。第3幕などは、休みなしで2時間くらい弾き続けとなるため、僕の友人のコンサートマスターが演奏した際には、リハーサルの際に初めて指を攣ったそうです。

 ほかのワーグナーのオペラに、『さまよえるオランダ人』という名作があります。3幕からなるオペラですが、休憩なしで続けて演奏する場合があり、2時間10分も弾き続ける大変な曲です。そんななか、一人だけ楽ができる奏者がいます。それはハープ奏者で、演奏するのは、最初の序曲とエンディングのみなのです。オペラの本場ドイツの歌劇場のハープ奏者などは手馴れていて、序曲を演奏した後、一旦、家に帰り、家族と食事を済ませてから何食わぬ顔で歌劇場に戻ってきて、最後の場所を弾くツワモノもいると聞いたことがあります。こんなことを言ったら、「出番が少ないからこそ、間違えてはいけないと緊張して大変なんですよ」と叱られるかもしれません。

 ちなみに、指揮者はずっと指揮棒を振っていますが、速いテンポで激しく指揮をしている時よりも、実際には、遅いテンポで指揮をするほうが負担になることが多いのです。なぜなら、遅いテンポに合わせてゆっくりと腕を上げ下げしていると、腕はリフト状態に近くなり、成人で平均3.6キロといわれる腕の重さを、肩がずっと支えることになるからです。実際に、肩痛は指揮者の代表的な職業病です。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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