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関西電力、悪しき因習と情実人事…32年前の“2.26事件”から考える血族支配と私物化

文=菊地浩之
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2003年8月20日、同年7月12日に亡くなった元関西電力名誉会長・芦原義重のお別れ会が大阪市内のホテルでとりおこなわれた。葦原は福井県美浜原子力発電所開設の陣頭指揮をとるなどし、関西電力“中興の祖”ともいわれる。(写真:読売新聞/アフロ)

 関西電力の役員ら20人が福井県高浜町の元助役から金品を受け取り、ついに関西電力ツートップが辞任にまで追い込まれた問題。

 なんでもかんでもコンプライアンスにひっかかるこのご時世に、あからさまな金品受領などあり得ないだろう。「返却を申し出たが、恫喝され返却を諦めざるを得なかった」「精神的苦痛から体調を崩した」という、サラリーマンとしては同情を禁じ得ない話もある一方で、幹部が業者から金品を直接受け取っていたという言い逃れできない報道もあり、関電の役職員が私利私欲に走ったのか、それとも元助役の被害者なのかを判断するには、まだまだ予断を許さない状況にある。

 しかし、1987年2月26日に関電で起きた“御家騒動”を思い出すにつけ、やっぱりこの会社のガバナンスは模範的ではなかったと思わざるを得ないのだ。

関電「中興の祖」芦原義重

「関電の2.26事件」と呼ばれたクーデターは、先述の通り、1987年2月26日の取締役会で起きた。関電の「中興の祖」と呼ばれた芦原義重・代表取締役相談役名誉会長と、その腹心の内藤千百里(ちもり)副社長が、小林庄一郎会長によって突然解任されたのだ。

 主人公である芦原義重の「代表取締役相談役名誉会長」という、通常ではあり得ない肩書きがその異様さを物語っている。

 芦原は1901年に香川県高松市に生まれ、1924年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業して京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)に入社。当時、阪急電鉄は傘下に野球団・阪急軍(のちの阪急ブレーブス、現在のオリックス・バファローズ)を持っており、芦原はオーナーの小林一三(いちぞう、松岡修造の曾祖父)から「誰がバッターボックスに立っているのか、観客にすぐわかる方法はないか」と指示され、スコアボードの選手名の上に赤ランプがつくようにした。今ではどこの球場でもやっている、あの装置の発明者なのである。

 さて、芦原は電鉄部門ではなく電力部門に配属され、電灯部長、電力部長を歴任した。現在では奇異な感を受けるが、戦前の阪急電鉄は電力部門を持っていたのだ。

 明治以降、地方の資産家などが発電所を建設していったが、これから発電所を作ろうという地域には当然、電気を使う場所がない。そこで、鉄道を敷いて恒常的な顧客を創出するとともに、電気の便利さを当該地域に訴えるという作戦が採られた。そういうわけで、電力会社と電鉄会社は親和性が高かった。しかし、第二次世界大戦が熾烈さを増すと、国策で電力増強が叫ばれ、電鉄会社などの電力部門は電力会社に譲渡され、大々的な電力事業の再編が行われていく。

 阪急電鉄の電力部門も1942年に関西配電(関西電力の母体)に譲渡され、芦原も同社に移籍。戦後、関西電力ができると、常務に就任。1959年に関西電力の社長に就任した。

 芦原の功績として語られるのが、原子力発電事業の推進である。1970年7月に稼働を開始した福井県美浜原発は、日本の電力会社がみずから開発した最初の原子力発電所であり、芦原が陣頭指揮を取って1967年に着工。また、くだんの高浜原発も、芦原の社長在任時に開発が着手された。

 芦原は、美浜原発の稼働を花道にして社長を辞任、会長に就任した。さらに1983年に相談役・名誉会長に就任したが、代表権は手放さなかった。

 当時の社長権力は現代よりも巨大ですさまじい。芦原は11年間社長に在任し、その間、子飼いの部下を要職に就け、社内を掌握。また、1966年には関経連(関西経済連合会)会長に就任。関西の有力財界人として、阪急電鉄、関西テレビ放送、大阪ガス、日本生命保険の社外取締役を務めた。

 さらに、時の総理大臣(田中角栄から竹下登まで7人までが確認できる)に、「盆暮れに1000万円ずつ献金し」「総理大臣と一対一でいつでも話し合える関係になった」という(有森隆『社長解任』さくら舎刊)。

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関西電力公式サイトトップページには、「当社役員等の金品受領に関する役員人事等および第三者委員会の設置について」のアナウンスが、謝罪の言葉とともに掲載されている。(2019年10月10日現在)

会社の私物化批判

 このような巨大な権力は、時として「権力の私物化」「会社の私物化」を生む。

 芦原義重には四男三女がいたが、長女の夫・森井清二が1985年に関西電力の社長に就任する。それ以外にも四男が関西電力の本部営業部長、次男は関電の子会社の社長。三女の夫も関電の子会社に勤めていた。これが「会社の私物化」として批判された。

 たとえば、かつて三菱グループにはグループ会社の役員子弟が就職することが有名だった。しかし、三菱商事は1950年代にすでに子弟入社を禁じている。これは、三菱商事に入れなくても三菱銀行や三菱重工業に入ればいいという“抜け道”があるからこそできる所業である。まあ、やはりグループ役員の子弟であることは出世において有利だとは思われるが、自社役員の子ほど露骨にはならないだろう。

 ところが関西電力にはそうした“抜け道”がなかったので、子どもを自社に入社させて部長クラスに引き上げたり、子どもを子会社に入社させてそのトップにするといった情実人事がまかり通ってしまったのだろう。

 しかも、四男の義父は松下電器産業(現在のパナソニック)会長、次女の義父は三和銀行(現在の三菱UFJ銀行)頭取といったわかりやすさである。義父が役員を務める会社との企業間関係まで考えると、よほどのボンクラでもない限り出世させておいたほうが、おのれのためともいうものだ(うーん、忖度だ)。

 同じような理由なのか、意外にも公益事業には世襲が少なくない。

 1985年に中部電力社長に就任した松永亀三郎は、現在に至る「九電力体制」を作った松永安左エ門(やすざえもん)の甥である。その松永安左エ門は長崎県出身だが、戦前に彼は中部地方の電力会社・東邦電力の創業社長を務めており、中部電力の歴代社長には松永の親戚がほかにも存在する。

 また、1989年に東京ガス社長に就任した安西邦夫は、東京ガス会長・安西浩の次男である(安西一族は四人の総理大臣を親戚に持つ、日本有数の閨閥ファミリーといわれる)。父の会長辞任と息子の社長就任がセットという、あからさまな世襲はさすがに大きな批判を浴びた。

 面白いことに、電力会社の大株主である生命保険会社などの職員は、週刊誌などでは匿名でそうした行為を大いに批判はするものの、企業としては表だって批判することは絶対に避ける。理由は、株式持ち合いだから。日本企業の株式持ち合いは、商取り引き維持のために相手企業の株式を持っているというのがポイントだから、相手企業のガバナンスには興味がない。そういう面倒くさいことには立ち入らないことが、むしろマナー(?)である(うーん、忖度だ)。だから、海外からは批判されてしまうのだろう。

 今回の関電報道でも、海外の株主による熾烈な追求が展開されてしまうに違いない。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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