バレエダンサーは42歳から年金?クラシックオーケストラの楽員の特殊な“定年&年金”
フランス政府が打ち出した年金改革に反対するフランス国鉄の労働者によるストライキは、昨年12月から年をまたいで1カ月以上にも及び、フランスは大混乱です。そんななか、世界トップクラスのパリ・オペラ座バレエ団のダンサーたちによるストライキも1カ月以上続いており、舞台スタッフ等の裏方も同調したために、バレエだけでなくオペラ公演も中止せざるを得なくなり、とうとうオペラ、バレエと60公演以上が中止となりました。損失額は1200万ユーロ(約14億円)という、オペラ座始まって以来の記録的数字になっています。
実は、このダンサーたちが必死で守ろうとしているのは、1643年から72年間というフランス王家最長の在位を誇った、「太陽王」ルイ14世の時代に導入された年金システムなのです。
バレエは、身体能力を屈指して美を表現する芸術です。それは器楽演奏家や歌手も同じですが、バレエは体全体でアクロバットのように跳んだり、回ったりする踊りを求められるので、どうしても年齢を重ねるにつれて難しくなってきます。つまり、スポーツ選手と同様に、ダンサーとして仕事をできる時間は短いのです。子供の頃からバレエ一筋でがんばってきて、18歳くらいで運良く仕事を掴んだとしても、35歳くらいで引退を考える人もいるくらいの短い寿命です。しかも毎年、若さ溢れるダンサーがバレエ学校を出てドンドン登場してきます。
スポーツ選手のように怪我を抱えながら無理して踊り続けていても、40歳を超える頃には、もう体がきつくなり始めます。とはいえ、バレエ一筋の人生なので、ほかの仕事なんてできませんし、運良くバレエ学校の教師などになれればいいのですが、みんなそんなチャンスに恵まれているわけではありません。
そんなバレエダンサーたちのために、“世界一美しい宮殿”といわれているヴェルサイユ宮殿を建設した、芸術好きなルイ14世によって、バレエダンサーならば42歳から受給可能な特例年金制度がつくられ、それが今まで続いていたのです。そのおかげでフランスでは、これまでたくさんの優秀なダンサーの卵たちが、将来の不安を持つことなくバレエ団に入団することを目指して必死の努力をしてこられたのです。
今回、フランスのマクロン大統領が打ち出した年金改革は、現在42種類ある年金制度を一本化するというもので、それが実施されると、どのような職種の人であっても、64歳まで、年金を受給できなくなります。これはダンサーたちにとっては大問題です。64歳まで踊り続けなくては生活が困窮しかねないわけですが、そんなことは体力的にも無理ですし、こんなことを言うとダンサーたちに怒られるかもしれませんが、50、60代の踊り手が大勢出演して白鳥の湖を踊っている姿が、パリのバレエファンを楽しませられるとは思えません。
さて、このオペラ座の大混乱に慌てた政府は、2022年以降に雇用されたダンサーらに対してのみ新年金法を適用し、退職するダンサーには職業転換プログラムを受けることができると提案しました。しかし、今現在、バレエ団入団を目指してがんばっているバレエ学校の生徒たちにとっては、なんの解決策にもなりませんし、42歳まで踊れば、その後一生安泰だと思っていた現役ダンサーたちにとっても、今さら違う職業に就けと言われても無理難題です。こんな制度ができてしまったら、バレエの本場フランスからバレエがなくなってしまう恐れがあるほどの大問題なのです。
短い期間に大輪の花を咲かせるバレエダンサーならではの、特殊な人生設計をご理解いただけたでしょうか。
指揮者、楽員の人生設計
一方、指揮者も特殊な世界ですが、まったく真逆です。ダンサーが就職口を見つけ翌日から大活躍している18歳ごろ、指揮者の卵はまだ音楽大学で指揮科の教授に、しごかれ始めるころです。その後、大学を出ても20代はコンクール挑戦に明け暮れてチャンスをつかもうとしたり、オペラ劇場に入ってピアノ伴奏をしてオペラを覚えながら虎視眈々と指揮台に上がれるチャンスを待っているような状況です。運良く指揮者になれたとしても、30代、40代は“若手”として扱われ、50歳になっても「まだまだこれからだよね」と言われる世界です。実際に、70代、80代の巨匠指揮者が、国際線の飛行機に乗って世界中で精力的に指揮をしており、正直、リタイアして年金で暮らすことを考えるような人生ではないのです。
数十年前の日本では55歳定年の会社が多くありましたが、指揮者の場合は55歳くらいからが本番ともいえるのです。
オーケストラの楽員も定年があります。そんななか、定年を迎える年齢になってもなお、若手を寄せ付けないような、卓越した腕前を保持している名人プレーヤーも珍しくはないのですが、定年は規則なので去る日は来ます。そして、すぐさまオーディションが行われ、代わりになる新楽員を募集するわけですが、これがとても難航するのです。
それは、オーディションの審査員を楽員が務めていることに大きな理由があります。彼らは入団以来、先輩でもある前任者の素晴らしいサウンドや音楽を当たり前のように聴き続けてきたので、それが基準になってしまうのです。そのため、よほど優れた腕前の若者でない限り、誰を聴いても見劣りしてしまい、何度オーディションをしても流れてしまうのは、日本でも欧米でも同じ情景です。
(文=篠崎靖男/指揮者)