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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

バッハやモーツァルトが音楽家になったのは“家業”だったから?大作曲家誕生の裏側

文=篠崎靖男/指揮者
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「Getty Images」より

 ドイツで17世紀から18世紀前半にかけて活躍した、“音楽の父”とも呼ばれるヨハン・セバスティアン・バッハは、なぜ音楽家になったのでしょうか。また、かの有名な、18世紀後半に活躍したヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、どうでしょうか。

 彼らは幼少の時から音楽に対して並々ならぬ興味を示し、それに気づいた両親が音楽の道に進ませたのでしょうか。読者の皆様はがっかりとなさるかもしれませんが、実は単純に家業だったからなのです。

 バッハは、曾祖父の代からの音楽一家です。ひ孫に大天才を生み出したわけですが、このバッハがつくり上げたのは素晴らしい音楽だけではありません。先妻と後妻との間に、合わせて子供がなんと20人もいました。無事に育ったのは男子6人と女子4人のみですが、そのうち4人の息子を優秀な音楽家に育てています。ちなみに、この時代は子供が大人になる前に亡くなってしまうことは珍しくありませんでした。モーツァルトも本当は7人兄弟でしたが、残ったのはモーツァルトと姉のナンネルだけです。

 当時のヨーロッパは、医療が未熟だったこともありますが、長い冬は家の中も寒く、食糧保存技術も限られていたので、食事は本当に粗末なものでした。衛生面も極めて悪く、フランス皇帝ルイ14世の頃でも、パリの街角の路上には人間の排せつ物がそのまま捨てられて、ひどい悪臭を放っていたそうです。むしろ、こんな悪い条件でも育つことができる子供だけが大人になれたのかもしれません。

バッハからモーツァルトへ

 さて、家業を継いで音楽家になったバッハの4人の息子のなかでも、ヨハン・クリスチャン・バッハは、世界的評価も得て世界経済の中心地ともいえるイギリス・ロンドンで大成功し、「ロンドンのバッハ」と呼ばれ、イギリス王妃シャーロットの専属音楽教師となるほどで、父親の才能を一番受け継いでいたと考えられています。そして、その豊かな才能から生まれた音楽が、ある大天才に引き継がれることになったのです。それがモーツァルトです。1764年に父親とロンドンにやってきた少年モーツァルトは、このバッハの息子から、これまで聴いたことがなかった華やかな表現と最先端の響きを学び取り、その後の音楽に大きく影響させたのです。つまり、モーツァルトは“音楽の父”バッハの孫弟子ということになります。

 本題に戻りますが、バッハの息子たちが父親の素晴らしい音楽に感動して音楽の道に進もうと考えたのかというと、そうではありませんでした。当時のヨーロッパでは身分制度がはっきりとしており、パン屋さんの息子はパン屋さん、靴屋さんの息子は靴屋さんになるのが普通でした。これは音楽の職業でも同じで、音楽家の息子が音楽家になるのは自然なことでした。

 モーツァルトの父レオポルドのように、歴史哲学を修めるため大学に入ったものの、音楽の世界に進んで大成した人もいるので、強制されていたわけではないのかもしれませんが、歌舞伎俳優の子供に生まれたら、物心がつく前から歌や踊りの稽古をさせられて、知らないうちに舞台に乗せられているのと同じような感覚かもしれません。

 著名な音楽家を祖父に持った幼少時のベートーヴェンも、酔っ払って帰ってくる歌手の父親に夜中でも叩き起こされて楽器の練習をさせられていたそうですし、さえない音楽家を父に持ったブラームスも、英才教育を受けさせられていたことが知られています。

音楽家の子が音楽家になる理由

 当時のヨーロッパでは、今以上に家業の価値観が強かったのですが、これには理由があります。特に中世のドイツ圏の地方の町では、物流の需要と供給量は決まっていたので、たとえば近くに靴屋さんが2つ開店してしまうと、共倒れしてしまいます。そんなわけで、ひとつの職種は1人だけと決めていた町が多かったのです。靴屋さんになりたければ、町にひとつしかない靴屋さんの親方に弟子入りをして修行をしたのち、資格試験を受けて親方に店を譲ってもらうという流れでした。もちろん、自分の息子に譲るのが一番スムーズです。

 音楽家も同じようなものでした。現在になっても、世界的なウィーン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとしたドイツ圏のオーケストラでも、「父がここでフルートを吹いていたので、僕もフルートを勉強して入団した」というようなケースが結構あるところから見て、まだまだ名残りがあるのかもしれません。もちろん、公正なオーディションを受けなくてはなりませんが、幼少時から父親から叩きこまれていることは大きな強みとなります。

 もちろん、今の時代では、音楽家の子供でなくても音楽大学に入るなど、十分な音楽教育を受けることができますし、チャンスも平等に開かれています。僕も両親はまったく音楽と関係がないにもかかわらず、指揮棒1本を持って世界15カ国以上のオーケストラを指揮してきました。

 とはいえ、父親が偉大な指揮者で、その息子も優秀な指揮者になったケースが結構あることも事実です。現在、NHK交響楽団首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィの父親は、82歳にして現役の大巨匠ですし、弟も優秀な指揮者です。指揮者は、自分で音を出せないだけに、オーケストラから信用を得て指揮を振らせてもらえるまでが大変です。一般的には、コンクールを受けたり、劇場のピアニストになってチャンスを待ったり、あらゆる手を尽くしてやっとオーケストラの指揮台に立つ大チャンスを得られるわけですが、父親が大指揮者であれば、父親に推薦してもらえるので、その部分は芸能界の二世タレントと同じで、ほかの若い指揮者にとっては恨みがましくなるほど恵まれているといえるのかもしれません。

 それでも、その後は自分で評価を得ていかなくてはならない点は、どこの世界でも同じです。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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