「数字」重視の成果主義を強いる、間違った経営者たち…売上や利益などコントロールできない
脱時間給制度について、依然として一部に根強い反対論があるようだ。新しい制度に伴う懸念がいろいろあるのはわかるが、そもそも脱時間給制度を含む「働き方改革」の議論が、ほとんど「休み方改革」になっているような気がしてならない。もっと休みたい人の権利を守るのはいいが、もっと働いてスキルを上げ、キャリアアップしたいと思っている人だって少なからずあるはずだ。そういう人の権利はどうなっているのだろうか。
脱時間給制度は、別名「高度プロフェッショナル制度」と呼ばれているが、こんなことでは会社員がプロフェッショナルになることなどほとんど無理な話だ。プロになるどころか、時間で測れる仕事なら、すべてAIに取って代わられるだろう。
成果主義は必然的な流れ
私は、論理的に成り立たないことは早晩破綻すると思っている。人間の力など自然の摂理に敵うはずがないからだ。そういう観点からすると、時間で給料が決まる仕組みは早晩破綻するはずだ。給料は富の分配である以上、富と相関性のない尺度で富を分配することは論理的に成り立たないからだ。
作れば売れた時代ならまだしも、現在のほとんどのビジネスは時間をかけたからといって売上が増えるわけではない。時間をかければむしろコストを発生させて、利益を減らしかねない。それなのに時間に応じて給料を払っていたら、経営が成り立つわけがない。だから、成果主義は必然的な流れなのである。
ただ、「成果主義」というと、ほとんどの人は売上や利益という財務的成果を思い浮かべる。実際、多くの企業で採用されている成果主義とはそういうものだ。なかには、「営業部門は売上で評価できるからいいけど、コストしか発生しない経理部門や総務部門はどうやって評価したらいいんですか? コストの削減額しかないじゃないですか」などという人もいる。
非財務的成果主義のススメ
成果を財務的指標だけで測ることには無理がある。特定の部署や特定の人が売上高や利益を生み出しているわけではないからだ。「営業部門は売上で評価できる」というのも幻想だ。営業部門は顧客に一番近いところにいるだけであって、営業部門の人が売上を生んでいるわけでない。営業部門の人が売っているものは製造部門がつくったものだろうし、営業部門が営業のことだけ考えていればいいのは、総務がバックオフィスを支えているからだ。売上や利益は、組織が総体となって生み出しているというのが現実なのだ。