同社が「情報電子会社」への脱皮に力を注いでいた頃、ライバルの旭硝子は薄型テレビ用ガラス基板などに大型投資を行い、着々と収益を拡大していた。
05年12月期連結の旭硝子の売上高は1兆5266億円、最終利益600億円。06年3月期連結の日本板硝子の売上高は2658億円、最終利益は77億円。
その差は歴然。日本板硝子は、旭硝子をライバルと呼ぶのもおこがましい地位にあった。
そんな時期に英国から突然迷い込んできたニュースが、ピル社身売り話。05年秋のことだった。しかも当時の日本板硝子は「光レンズ事業失敗の傷がまだ癒えず、リハビリ中」と言われていた時期だった。
それでも「世界3位のピル社を買えば、宿敵旭硝子との差を一挙に詰められる」と買収にのめり込み、グローバル化の推進で名を挙げようとの野望に目がくらんだのが、藤本氏と出原氏の2トップだったといえる。
●一夜漬けのグローバル経営の末路
ピル社買収後の同社は、一夜漬けでグローバル経営に対応しようと、08年6月から委員会設置会社へ移行。日本人による企業統治を担保するため、12名の取締役中7名を経営監視役にした。残り5名を取締役兼執行役員に任命、うち4名が外国人だった。
同社はこれを「日本人が睨みを利かせ、外国人が経営する、ハイブリッド経営体制」と自賛、これで容易にグローバル経営ができると考えたらしい。
そうして、グローバル経営の海へ船出した「日本板硝子丸」が船頭に起用したのが、買収時のピル社社長、スチュアート・チェンバース氏だった。
同氏はロイヤルダッチシェルとスナックメーカーの社員を経て96年に当時経営再建中のピル社に入社。02年に同社社長となり、買収後の06年に日本板硝子取締役、07年副社長、08年6月に代表取締役社長に就任した。日本板硝子に買収されるまで、日本企業との接点は何もなかった。
すると案の定、チェンバース氏は翌年8月、在任1年余りで「仕事より家族との時間を大切にしたい」と、理由にならない理由で突如辞任、帰国してしまった。
そこで同社はこの時、会長になっていた藤本氏がリリーフで社長に復帰、その間に同社は、米デュポン副社長を務めた後は経営から身を引いていたクレイグ・ネイラー氏をヘッドハンティング、10年6月に同氏を「2代目の外国人社長」に据えた。
それも束の間、ネイラー氏も12年4月、「他の取締役たちと経営戦略の考え方が合わない」と、1年10カ月で突然辞任してしまった。後任には吉川恵治副社長(当時)が昇格、現在に至っている。
かくして「グローバル企業を経営できる人材が日本人の中にいない」という理由で安易に始めた愚かな「ハイブリッド経営体制」は、もろくも崩れ去ってしまった。
●現場の混乱と有能人材の流出
「日本板硝子流グローバル化」の象徴だった「外国人社長」の相次ぐ辞任は、事業を混乱させただけだったようだ。
成長の牽引車と位置付けていた太陽電池用ガラスは、主要顧客が大幅減産に向かっているのに加え、中国メーカーの安売り攻勢で世界的な販売価格下落が続いている。
ブラジルでは自動車ガラスの生産能力を50%以上高めたが、こちらも中国メーカーの低価格品に押され、操業率は低迷している。「グローバル化で宿敵旭硝子に肉薄」の夢に酔い、2トップの名声欲を後押しに、後先を考えずに買収したピル社のツケは大きかったようだ。
何よりの思惑外れは、08年9月のリーマンショックとその後に続いたギリシャ債務危機で、ピル社の主戦場である欧州が大不況に陥り、ピル社の業績が壊滅的な打撃を受けたことだ。
事業撤退や希望退職者の募集など、国内外で度重なるリストラも余儀なくされて多額損失を計上。買収によって膨らんだ有利子負債の金利負担も重くのしかかっており、13年3月期は280億円の純損失と2期連続の赤字を見込んでいる。
現在は昨年4月に就任した吉川社長が中心となって経営再建に取り組んでいるが、今のところ成果はなく、14年3月期も3期連続の赤字が避けられない見通しだ。
同社の危ない経営に見切りをつけ、10年に独立した技術系の元社員は「事業撤退もあり、有能な人材が200名以上も会社を去った。外国人社長が続き、英語が得意で外国人社長イエスマンばかりが重用される風潮に、みんな嫌気が差した」と振り返る。