オーケストラの指揮者だから気づいた、音楽家の特殊能力…ベートーヴェンの天才性の原点
南アフリカに1カ月近く滞在しながら、毎週コンサートを指揮していた時のことですが、その演奏会に、ピアノに詳しい方ならば名前を言えば「あ、あのすごい才能を持っているピアニストですね」とわかるくらいに有名な、若手有望株のロシア人ソリストを迎えていました。
その彼に対し、「この音は楽譜の音符が間違えているので、直したほうがいいよ」と指摘したところ、彼は「それは困った」という意外な返事をしたのです。普通ならば、ソリストに楽譜を指さしながら音符の間違えを指摘すると、「間違えなんですね。了解」と、すぐに直してくれるか、「僕は合っていると思う」と反論されるかのどちらかなのですが、なぜか彼は困ってしまったのです。
実は、彼は楽譜を読めなかったのです。もちろん、彼の視力に問題があるわけではありません。では、どうやって難解な協奏曲を弾けるようにしていったかといえば、耳で覚えて弾いていたのです。それでも、いったんピアノを弾きだせば、その10本の指からは、素晴らしい音楽が流れてきます。大天才なのです。
では、子供のころから楽譜に慣れ親しんできたはずのピアニストが、なぜ音符を読めないのでしょうか。それは多分、音符と実際の音がどうしても結びつかないのでしょう。たとえば、“ド”という音符があったとしても、音符自体が音を出すわけではなく、音符という記号を頭のなかで変換して音として認識しているわけですが、彼にはそこが難しいのだと思います。確かに、考えてみると、紙の上の音符から音が出るはずはなく、それをなんの疑問もなくこなしている我々のほうが、彼にしてみたら、おかしいのかもしれません。
これは、“ディスレクシア”と似ているように思います。ディスクレシアは字を読むことに困難がある障害で、日本では「難読症」や「識字障害」と呼ばれており、たとえば「Five」と「5」が同一のものとして結びつかないようなことがあります。
この障害が有名になったのは、アメリカの大俳優、トム・クルーズが自らディスレクシアであると公表してからでしょう。ほかにもキアヌ・リーブスやジェニファー・アニストンも公表しています。俳優の仕事は台本を読んでセリフを暗記して演技するわけですから、彼らは大変な苦労を伴いながら、国際的名俳優としてキャリアを築き上げた方々ばかりです。
実際に歴史的人物のなかにも、トーマス・エジソン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、アルベルト・アインシュタインなどはディスレクシアだったといわわれており、ほかにもその道の第一人者である天才たちの名前が並びます。
音楽家によく見られる特異な現象
映画『E.T.』(ユニバーサル映画、CIC)や『ジュラシック・パーク』(ユニバーサル、UIP)を監督したスティーヴン・スピルバーグも、ディスクレシアとの診断を受けたそうで、学校を卒業するのにほかの生徒よりも2年多くかかり、今でも台本を読むのに人より2倍の時間を要するといいます。しかし、ここに特別な才能のヒントがあるのかもしれません。文章を読むのに時間がかかることで、むしろ原作を深く読み込み、理解を深めていくことができる可能性があります。
本連載記事『天才・モーツァルトはサヴァン症候群?雷に打たれて天才ピアニストになった人も…』でも書きましたが、一般的に障害といわれていても、簡単にハンディとはいいきれないとの指摘があります。最近、よく話題になるアスペルガー症候群のなかにも、天才や高学歴の方々が多いという話を聞いたことがあります。ちなみに、スピルバーグは自分がアスペルガーであるとも公表しています。
このアスペルガーを説明する有名な話があります。ある教師が宿題を忘れた生徒に対し、嫌みを込めて「犬があなたの宿題を食べちゃったの?」と尋ねると、この子供は謝りもせずに押し黙ります。それは、自分は犬を飼っていないし、そもそも犬は紙なんか食べないことを教師に説明しなくてはなどと考え、困ってしまうのです。一方の教師は、謝りもしない生徒に腹を立ててしまうのですが、子供は教師の表情から嫌みを感じ取ることができず、言われた質問を純粋に考えているだけなのです。
僕にとって興味深いのは、ひとつの質問に対して、さまざまな思考が頭の中で展開され、いくつかのストーリーがつくり出されていることです。単純に「宿題の紙を食べていません」という答えでもよかったわけです。
ここで思い出すのが、作曲家ベートーヴェンのことです。彼の特徴は、たったひとつの短いメロディーを膨らませ、ストーリーを展開させて1曲に仕上げていく卓越した能力で、ほかの作曲家とは一線を画しています。たとえば、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』は、「ジャジャジャジャーン」という出だしが有名ですが、あの短い4つの音だけを使い、さまざまな形に発展させながら、必要最小限のほかの要素と組み合わせてひとつの交響曲に仕上げています。
凡人の僕には、「ジャジャジャジャーン」は単なる「ジャジャジャジャーン」で創作を広げようがありませんが、ベートーヴェンには可能だったのです。ひとつの素材を発展させて曲を書き上げるのは作曲技法のひとつですが、ベートーヴェンはその能力がほかの作曲家と比べてもずば抜けているのです。
実は、ベートーヴェンもアスペルガーではないかといわれております。アスペルガーによく見られるように彼も対人関係が苦手で、純真すぎる性格もある一方、その特徴でもある、特定の分野に対する驚異的な集中力を発揮して多くの傑作を生みだし、今もなお世界中の人々に感銘を与え続けているのです。
ところで、僕もそうなのですが音楽家には、何十年も前のことをものすごく鮮明に覚えているにもかかわらず、人の名前をすぐに忘れたりする人が結構多いのです。反対に、一度聞いた名前は絶対に忘れず、外国語もあっという間にマスターしてしまう人もいます。
僕は「7年前のコンサートで、あのオーボエ奏者は大事な音を間違えた」とか、「30年以上前に、ソロパートを弾いていたチェロの人が、ほんの少し音程を外して自分自身に向かって嫌な顔をした」といったことを、結構鮮明に覚えていたりします。その半面、まだ僕の子供が小さい頃、友人に紹介している時に、なんと自分の子供の名前が出てこないという、とても恥ずかしい思いをしたことがあります。普通に考えたら、変な話です。
(文=篠崎靖男/指揮者)